悪を避けられないからこそ、 「弱さ」を「救い」に変える目を IT宣教の潮流・考察⑤
アプリ「聖書プロジェクト」をめぐって、キリスト教の視点で現代のメディア論、テクノロジー論を深めていく連載最終回。引き続き現代のメディア、テクノロジー研究者、マーシャル・マクルーハン、ジャック・エリュール、ニコラス・カーの議論が紹介される。記者=チェイス・ミッチェル (記事原題:The Bible Project Would Like Your Attention, Please. 配信元https://medium.com/faithtech)
前回まで
☆IT宣教の潮流・考察① いま注目のアプリ 聖書プロジェクトとは?
☆テクノロジーの絶望と希望の間を揺れ動く IT宣教の潮流・考察② いま注目のアプリ 聖書プロジェクトとは?
☆テクノロジーを神の目的に使うには聖霊によって変えられることが必要 IT宣教の潮流・考察③
☆内容よりも、ツールそのものが人の注意力に影響 IT宣教の潮流・考察④
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聖書プロジェクトのユーザーは、メディアに順応した新しい習慣を作り、その環境に慣れることで、「同じコンテンツ」である聖句を従来の聖書朗読とは全く異なる形で体験をすることになる。解説動画は聖書の書物、登場人物、テーマなどを要約し、明確にし、分かりやすくしている。しかしカーの主張によると、このメディアがユーザーを注意散漫にさせ、聖書の理解や信仰の定着を低下させる可能性がある。
「触覚の調和」を乱す
興味深いことに、マクルーハンも聖書プロジェクトには批判的だが、彼の問題意識は聖書の理解や信仰の定着よりも、神の存在を意識することに関係している。マクルーハンは、友人のジム・テイラー(The United Church Observerの編集者)に宛てた手紙で、次のように述べている。
「私は神を概念としてではなく、すぐそばに常に存在している事実、絶え間ない対話の場だと考える…宗教における概念には妥当性がない。聖書のたとえとは概念ではなく共感を与え、あらゆる人に当てはまる。そしてそれ自体が認知プロセスそのものである」(cited by Fraim, 223頁)※1
マクルーハンは宗教における「概念」には無関心であり、そのため宗教的なメディアが聖書の理解や信仰の定着に与える影響には無関心だ。彼は「共感」を懸念しており、聖書プロジェクトの伝道方法におそらく悲観的なのは、動画がその概念を十分に伝えられていないからではなく、テキスト、音声、映像によるマルチメディア表現が「触覚の調和」を乱すと考えたのだ。
エリュールも、神の国の建設を仲介する技術の役割を、一見すると楽観視できないようだ。「人間は瓶の中のハエのように捕らえられている」「文化、自由、創造的な努力における人の試みは、技術という書類棚の単なる1項目になった」 (418頁)※2と彼は述べている。このような発言から、エリュールが聖書プロジェクトを単なる「技術」と批判するのは容易に想像できるが、ここでエリュールの改革派神学にも注目しなければならない。
エリュールは、聖霊のいるところでは男も女も自由であると主張することで、しばしば彼に向けられる技術決定論とみなされる批判から自らを解放した。※3 クリフォード・クリスチャンズはエリュールが「悲観論者ではなく、人間の自由の源である神の完全な自由を、技術の不可避性に抗して弁証法的に捉えていた」と指摘する。※4
エリュールは、テクノロジーとは私たちの時間、思考、目的を悪い方向に転換する物質的な力であり、不自由なものであるという見解が強かったが、神の摂理はテクノロジーの影響を単に避けたり、「埋め合わせる」ものではないとした。確かに彼は、テクノロジーの進歩は、堕落したユーザーが物質的・経済的効率という誤った礼拝を続けるための手段であると考えた。そして、社会の物質主義はある意味で避けられないとまで言い切った。しかし彼は、人が悪とするものを神は善とされると考え、キリストに究極の自由を見いだした※5。 神は罪を認めないが、神の摂理によって弱さを通して救うという、古くからのキリスト教の逆説を受け入れた。
究極の仲介者(Mediator)信じ
聖書プロジェクト を見直す
メディア・エコロジーは、聖書プロジェクトについて何を教えてくれただろうか。解説動画が新しいデジタル・ジャンルを受け入れた証しならば、アプリというアプローチは、主流となっている技術的パラダイムを受け入れるさらなる証しとなるだろう。聖書プロジェクトが解説動画によって「シリコンバレー式」をもたらしたように、今やこのアプリは私たちのデジタル領域における思考の習慣を助長する。
聖書プロジェクトの更新情報は、特別なコンテンツを用意してユーザーの注意を引こうとするのではなく、ユーザーが気に留めるチャット、電子メール、SNSの通知による大合唱の一つに加わることになる。長い物には巻かれろ、ということだろう。
聖書プロジェクトは、解説動画を聖書の解釈に利用し、新しいコンテンツをユーザーに知らせるアプリを導入することで、神の御言葉を伝えるために新しいメディア技術を進んで使う伝道者(ラジオやテレビ伝道者など)と同列に並んでいる。人が多くの時間を費やし意識を向けるデジタル空間に参入したことで、世俗的な文脈で有効性が証明されているコミュニケーション・ジャンルでの展開を実現した。
このような複雑な問題に対処するには、ジャック・エリュールやマーシャル・マクルーハンのようなメディア・エコロジストの思考を参考にして議論することだ。ただ結局のところ、解説動画が世界を救う神の計画の一部となるのか、あるいは逆に人を破滅させるのか、どちらがテクノロジーの行く末なのかは憶測でしかない。どちらの思想家も、予測は霧の中をのぞき込むようなことに過ぎないという正統派の立場をとっていたのは事実だろう。※6
神は定められた時に適切な方法で、私たちをへりくだらせることができる。聖書プロジェクトは聖書の真理を伝えるには不完全な方法かもしれないが、メディアを介して御言葉を学ぶ方法の一つである。たとえ宗教的な内容であっても、メディアを使用する際にはそれを認識し気をつけなければならないが、究極的には、キリストが特別な仲介者(Mediator)であることが慰めだ。
心がキリストを求めるなら、神は不完全なテクノロジーであっても、堕落した人間を使うのと同様に、世界を救うために使ってくださるだろう。本であれデジタル・タブレットであれ神の御言葉を読むことはできるが、神が「人の心の板」※7に書き記されたものによって人は動かされるのだ。(終)
(クリスチャン新聞web版掲載記事)