【連載】D6② 愛と尊敬 夫婦の違いを受け入れともに神の栄光を現す
アジア福音同盟女性委員会・子ども委員会主催による「D6ファミリーカンファレンス」が6月9日から開催され、基調講演とともに多くのセッション、ワークショップ(WS)が行われた。その内容を連載で紹介する。第2回は、エマーソン・エガーリクス氏によるWS「愛と尊敬」。日々の暮らしの中に見られる夫婦の関わりに目をとめる。
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日々の夫婦のコミュニケーションの中、突然相手の心が沈んでしまう瞬間がある。そんな時に問題となっているのは、もはや会話の内容ではない。男性と女性では、同じことを話していても、その意味するところ受け取り方は全く異なる。にも関わらず、お互いに相手の話を理解していると思い込んでいる。このように、男性と女性の間には違いがあり、その違いによりコミュニケーションの難しさも問題も生じる。その上で、聖書が私たちに教える結婚の目的は、この違いを非難し合うのでなく、受け入れ合いながら、夫婦で神の栄光を現すことなのだ。
そもそも男性と女性では、互いに求めるものが異なり、その求めるものが得られないことが葛藤につながる。妻は愛するために造られ、愛を求める。夫は尊敬されるために造られ、尊敬を求める。もちろん妻も尊敬を必要とするし、夫も愛を必要とする。だが、夫は侮辱されたということに敏感で、妻は愛の欠如を感じやすい。夫は、妻から侮辱されたと感じる時、妻を愛せないと思う。また、妻は愛されなければ夫を尊敬する気持ちにはなれない。「愛がなければ妻は尊敬できない。尊敬がなければ夫は愛せない。愛がなければ尊敬できない、尊敬がなければ…」このように堂々巡りするしかない「狂ったサイクル」に陥る。
ここから抜け出すためにはどうしたらよいだろうか。ここで考えるべきは、「応答の責任は自分にある」ということだ。「妻から尊敬されないから妻を愛せない、夫が愛してくれないから夫を尊敬できない」と言うなら、その責任を自分でなく相手に押し付けていることになる。これは、神の御心にかなう応答ではない。もし夫が妻を愛せず、妻が夫を尊敬できないなら、それは自分自身が神から与えられた命令に不従順であることを主の前に告白すべきなのであって、相手のせいにすべきでない。神様はあなたの夫や妻を用い、あなた自身が神の掟(おきて)に従うかを見ておられるのである。
「狂ったサイクル」に陥ってしまった時は、次のように考えると良い。「妻は私を侮辱する女性ではない。愛されていることを確認できず、不安でたまらなくなっているのだ」「夫は愛のない人ではない。尊敬されようと努めているのだ。彼は私のためなら死をも厭(いと)わない人だ」と。それぞれの立場に立ち、相手のことを理解しようとすることで、互いの違いを乗り越えていくことができる。
男性と女性は異なる。一方が正しく一方が間違っているのではない。良いか悪いかでもない。妻(女性)をピンクに、夫(男性)を青に例えよう。ピンクと青はそれぞれ視点が異なり、言語が異なるので、自分の立場で相手の話を聴く時に誤解が生じ、うまくコミュニケーションできなくなることがある。しかし、異なるこの二色が混じると紫になる。そして、紫は神の色である。夫と妻は、一体となることでこの地上で神の似姿を表すのである。この「愛と尊敬」によって夫と妻が一体となり神の似姿、神の栄光を現すこと、これが神が結婚を定められた目的である。(つづく)
(クリスチャン新聞web版掲載記事)