「コロナウイルスは『神のご意志』によって計画されたものなのか、単なる『自然災害』なのか、その両者の間のどこかに位置づけられるものなのか…、この線上で右、左と揺れ動きつつ着地点を探しているのが、事の最中にいる者の精いっぱいのことのように見える」。最初にこう語った上で、疫病をどう理解するかについて話を進めた。
まず、宗教改革者の理解を確認。「黒死病の広がりを目の当たりにしたルターは、疫病が神の刑罰であると明言。だが、必ずしも否定的にはとらえず、疫病を通して信者が神を、隣人を愛しているかを試しておられる、が強調点だ。カルヴァンは信者に対しては『懲らしめ』、未信者に対しては『刑罰』と呼び、前者を父の行為、後者を裁判官の行為になぞらえて説明する。限られた事例ではあるが、中世の世界観では、疫病は神の手によるものという説明が一般的だと確認できる」

金道均氏

続いて、コロナ流行後にその現状を神学的に考察する複数の本を取り上げた。「ジョン・パイパーは『コロナウイルスを送ったのは神』と躊躇(ちゅうちょ)なく語る。ジョン・レノックスは『コロナはただの自然災害』で、人間には直接的な責任がないと語る。N・T・ライトは、コロナ禍から神のご意志を見出そうとする試みには否定的で、コロナ禍という現実には『悔い改め』という神の要請はないと強調する」
「それぞれの知見の不一致が克服されない限り、疫病から神のメッセージを受け取ることができない。疫病だけに議論を絞るのは困難だ」と金氏。そこで、次に18世紀から活発に議論され始めた「神義論」について触れた。「神義論は『神がいるなら、なぜ悪があるのか』の質問から議論が始まる。この質問は、神とこの世の悪のすさまじさが両立できるはずがないという議論に立つものだ」
「神義論は、神と悪に関する三つの命題からなる三段論法を用いる。①神が全能であれば、神はすべての悪を防ぐことができる、②神が完全に善であれば、神はすべての悪を防ぐことができる、③悪は存在する。その結論は、『全能であり、完全に善である神は存在しない』になる。この最後の結論を解消することが神義論の最優先課題であり、そのためには神についての理解を新たにするか、悪についての理解を修正するか、いずれかを試みる必要がある」
そこで金氏は三つの修正案を紹介。だが、どの修正案も伝統的な理解とはかけ離れたものとなった。「すると必然的に『神は人間に理解できるお方ではない』という神秘の領域に留めておくことが唯一の解決策になる。だが、教会の壁を超えたところで理解してもらうには、並外れた知恵と努力が必要だ」
続いて、「完璧な計画神義論」「十字架の神義論」など、八つの神義論とその詳細を概観。その上で、疫病を神義論の観点からどうとらえられるか、について語った。「疫病を悪として見るなら、自然悪(自然発生のもの)か道徳悪(人間によるもの)かを考える必要がある。次に、疫病という悪の問題は、私たちの神理解に対し、修正を迫るものなのか、という問いを検討しなければならない」
「疫病は『神のさばきであるのか』という問いから疫病の神学の可能性を考えてみた。神学、聖書学の知見から考察する中で、見解の不一致などの難しさがあり、神義論の議論を参考にし、悪の問題や神理解についてさらなる考察を重ねた。だが理論的な神義論をそのまま疫病理解に当てはめることは困難で、『神は疫病をもってこの世界をさばいている』と語るには様々な難関を通らなければならず、性急にその発言をすることは控えるべきであることは明らかではないか。『すべての苦難(悪)は善いものだ』という断片的な理解や、その他の悪の現実を用いた高圧的な伝え方などを避けられるよう努めたい。知り尽くすことのできない神をあがめ、この方に信頼し、この方をより深く知ることを願う」と結んだ。【中田 朗】

クリスチャン新聞web版掲載記事)