【連載】共感共苦(コンパッション)―福祉の視点から ⑤ 共感のない自助礼賛が人を追い込む
「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」
木原 活信 同志社大学社会学部教授
前回は、教会内で取り上げること自体がタブー視されるキリスト教と自殺について取り上げてみたが、今回は日本の自殺問題の現状に迫りつつその深層に更に迫っていきたい。日本では数年前までは年間自殺者数が3万人台と高い数字であった。「自殺は社会の鏡」であると指摘され、その対策が国家施策としても取り組まれ、ここ数年2万人台と減少気味となっているが依然、高止まりの深刻な状況が続いている。
ところで、コロナ禍の今、自殺率が増加しているのが子どもと10~30代の若い女性である。バブル経済の崩壊、リーマンショックの場合のときは、働き盛りの中高年男性が中心であったが、近年の子どもや若い女性の自殺増加は気になる。特に、目立つのは非正規雇用の若い女性の労働者、シングルマザーなどである。自殺は複合的問題に起因するので単純化は避けなければならないが、コロナ禍では社会的孤立、そしてうつ病が背後にある。また相次ぐ著名人の自殺が誘因とされる群発型の自殺の影響もある。共通しているのは、孤立した彼女らは誰にも頼れない、助けてと言えないということである。自助を強要される雰囲気では生活保護(公助)を受けるにも抵抗感がある。結局、自助の壁が崩れて、共助、公助にもつながらない。その背景には生活保護受給者へのスティグマを生み出した「自助」礼賛の国民体質がある。生活保護を申請すれば福祉事務所より家族へ扶養照会(昨年一部改正)があり、それに強い抵抗感がある人が多い。生活保護受給の事実を親族に知られるのであれば、路上で暮らしたほうがましだと語っている人もいた。これは「自助」大国の日本が生み出した結果である。このような「自助」礼賛の風土がコロナ禍で改めて浮き彫りにされてきた。
共感のない自助礼賛が人を追い込む
前回も触れたように自殺を忌避する伝統は、教会では一般社会より一層強く、それを語ることさえできない雰囲気が根強い。「病死とは違って自殺であったとは言えなかった」と語ってくれた教会関係者が少なくない。ところで、イスカリオテのユダは一方的に非難されるばかりであるが、苦悶(くもん)して、当時の祭司長、長老たちへ「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」(マタイ27章4節)と赦しと助けを乞うていたことは忘れてはならない。彼はもらった銀貨もすべて返却し、その意味で深い反省(厳密には「後悔」)をしている。しかし、そのユダを最終的に自殺へ追い込んだのは、祭司長、長老たちの一言である。ユダの苦しみと後悔の念に共感共苦するどころか、むしろとどめを刺すように「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」と言い放った冷たい一言であった、、、、、
(クリスチャン新聞2022年9月18日号掲載記事)