宣教論、説教論、牧会論、さらには都市論、文化論など多様な広がりをもつティモシー・ケラー著『センターチャーチバランスのとれた福音中心のミニストリー』(いのちのことば社)について、複数の観点から寄稿を届ける。第一回は「宣教学」の視点で篠原基章氏(東京基督教大学教授)。

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『センターチャーチ』は、ティモシー・ケラーの集大成ともいえる大著である。この著作は、近年の北米プロテスタントの主流派と福音派の両陣営において一大運動を形成してきた「ミッショナルチャーチムーブメント」(宣教的教会運動)の系譜に位置づけることができる。 「ミッショナルチャーチ」(宣教的教会)という用語は今や北米教会の間でリンガ・フランカ(共通言語)のように用いられているが、その議論は多様であり、一つの定義にまとめることは困難である。しかし、その根源的な理解は、それまで別個に取り扱われる傾向にあった宣教論と教会論を一体として捉えなおす新たな枠組みである。すなわち、教会の本質そのものを「宣教的」(ミッショナル)と捉える理解である。

「宣教的教会」(ミッショナルチャーチ)のルーツは、20世紀における一連のエキュメニカル宣教会議に見出すことができる。その理論形成の指導的役割を担ったのは20世紀を代表する宣教学者レズリー・ニュービギン(1909-98)である。ニュービギンはインドでの宣教活動を終え、母国イギリスに帰国するが、そこは啓蒙主義思想に根差した世俗文化の台頭によって急速に非キリスト教化したポスト・キリスト教社会であった。

ニュービギンは、非キリスト教化した西洋社会を「宣教地」と捉え、その社会と文化を研究し、福音によって果敢に切り込んでいく必要性を訴えたのである。その際に神学的土台となったのが、神の宣教の業に参与するために召し出された「神の宣教の民」としての教会理解であった。この「神の宣教の民」としての教会理解が、『センターチャーチ』の基本的な神学的枠組みとなっている。「宣教的教会」は、決して一時的な議論に終わるものではない。なぜなら、聖書全巻を通して語られている宣教の民としての教会理解に根差しているからである。

神の民である「教会」は建物のことではなく、「宣教の民」そのもののことである。この理解において、教会教職者も信徒も等しく宣教の民に属する同労者である。『センターチャーチ』は、信徒をあらゆる社会と文化の最前線に立つ「非公式な宣教師」として位置づける。クリスチャン一人ひとりが「キリストの手紙」(Ⅱコリント3・3)だからである。教職者の使命は、説教と聖礼典を通して、宣教的に生きる人々を整えることであり、一人ひとりの信徒を通して福音の種は社会に差し出され、このことによって社会にある宣教的教会は形成されるのである。

『センターチャーチ』は、福音主義神学に深く根差しつつ、近年の「宣教的教会」の神学的・実践的洞察を活用しつつ、聖書的な中心(センター)を求める宣教理論と実践の提言の書である。深められた自己理解と地域社会に開かれた姿勢は教会に新鮮な命を吹き込み、教会のあり方と宣教の実践に新たな息吹をもたらすだろう。この大著は、そのために必要な具体的で確かな指針を与えてくれる。

21世紀の宣教理論と実践は「神の宣教の民」という古くて新しい教会理解を取り戻し、それにいかに生きるかに懸かっていると言える。この書物が教会教職者のみならず信徒を含む多くの人々に読まれ、日本の教会の励ましとなることを願ってやまない。(つづく)

2023年02月26日号 07面掲載記事)