他者の被害を我がものとする人たち

木原 活信 同志社大学社会学部教授

3月11日で東日本大震災から12年となる。先月2月にはトルコ、シリアで大地震があり大きな被害となった。被害に遭われた地域の方々に、心よりお見舞い申し上げたい。災害は突然起こってくる。実は1995年の阪神淡路大震災のとき、私も京都の自宅が半壊した。京都で例外的に被害があった地域が話題になり、特に被害の大きかった我が家を新聞が写真入りで取り上げたほどだった。大きな地震が起こるたびに、その怖いつらい記憶が蘇(よみがえ)る。神が存在するのなら何故そのような自然災害による惨劇が起こるのか、と問い詰められたこともある。これは、神学上では「神義論」の基本的命題だが、総論的な答えではなく、個別に応答せざるを得ない。

ところで、神戸国際キリスト教会の岩村義雄牧師は、東北震災以降、難民支縁、被災者に寄り添う「ボランティア道」を提唱し、これまでに120回以上、東北震災や熊本豪雨の国内外の現地に出向き、その地域に仕える支援を行ってきた。古典ギリシャ語とヘブライ語が堪能で聖書釈義に賜物がある人だが、その知識を実践へ移す行動力には凄(すさ)まじいものがある。

岩村牧師は、今、教会が被災者や限界集落の苦悩に鈍感であるとし、被災者との「共生」「共苦」「苦縁」を掲げ、これらの現実と切り離して魂の救済のみに閉じ籠もる机上の神学、教会を批判する。ご自身の提唱する復興の神学には「逆説だが神学、知識、資格は不要である」と言う。そしてその実際を以下のように淡々と語る。「屑(くず)である自己は荒れ野、山、洞穴、地の割れ目をさまよってきた。喉のかわきに木々の茂み、空腹に孤児とのゲーム、疲れた肢体を横にするスペースが20センチあればいい。寝ている時、キングコブラ、わに、毒蜘蛛(どくぐも)がそばで這(は)っている。しかし、空勇気ではないけれど、不思議とこわくない」(「キリスト教と復興」〔関西学院チャペルアワー〕2021年11月)。災害支援の現場に真っ先に出かけて涙と汗を流す言葉には説得力がある。他者の災害を我がものとするかどうかはその人の想(おも)い次第であるが、それを行動に移すことができるかどうかが重要なのであろう。これは歴史にも通ずる話である。

日本の社会福祉の歴史を築きその先駆となったキリスト教福祉事業の先輩たちは、意外にも大きな災害を契機に召命されている。1891年の濃尾大震災が起こった時、石井十次は震災孤児を引き取り、実はこれが岡山孤児院を本格化させる契機となった。また当時同志社の学生だった山室軍平も、学業を休み、直ちに盟友であった石井とともに現地に赴き、救援活動に邁(まい)進した。それを契機にその後同志社を退学し、救世軍に入り、そこで生涯にわたって献身した。石井亮一も濃尾大震災で孤児を引き取ったが、その中にたまたまいた知的障害もつ女児との出会いを通じて後の知的障害児施設の滝乃川学園設立の契機となった。また1923年の関東大震災の時に、賀川豊彦は、直ちに神戸から被災地に駆けつけ救援活動に奔走した。これがセツルメント事業などの拠点となり、賀川の東京での社会事業活動の契機となった。

知識を机上のみでなく実践へ移せるか

台風、地震など自然災害の被害と惨劇を通して、運命を呪い、また神への懐疑を深める人もいれば、机上で神の正しさを論証する人もいる。しかしその一方で忘れてはならないのは、地が揺れ動き、あるいは水で覆われ、その揺さぶられた悲惨な光景に居ても立っても居られない状況になり、自らも全身揺さぶられながらも、その被災者の苦しみに寄り添い、そして涙し、腸の痛みを感じ、その支援と救済に天職を見いだす人たちがいることを。彼らに共通しているのは、被災者へのコンパッション(共感共苦)である。ここには肉を纏(まと)われ、地上で涙を流されたナザレのイエスの姿を垣間(かいま)見る。

2023年03月19日号 04面掲載記事)

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