【書評】「福音の剛速球」を全存在で受け止める釈義 『第一ペトロ書を読む 釈義と説教』評・大頭眞一
降参した。
実は数年前から、礼拝では福音書しか説教しないと決めていた。それには理由がある。
①福音書は、神と共に歩く歩き方を語る。そこから逸脱したときのために、書簡がある。ぼくはそう理解している。だったら、福音書で本筋である「歩き方」を語り、逸脱例として書簡から引用するのがよい。書簡から説教をはじめると、「そもそもの歩き方とはイエスが見せたように…」と福音書に戻らなければならず、それからまた、書簡に戻ってこなければならないから話がややこしくなる。
②書簡は福音書を前提としているため、端的に(例えば、善行を怠るな)結論を語るので、律法主義的になりやすい。
ところが『第一ペトロ書を読む』に、ぼくは降参した。
①石田牧師の鋭い釈義に基づいて読む第一ペトロ書は、福音が香ばしい。福音書がピッチャーのように福音の剛速球を放っているとすれば、石田版第一ペトロはそれをキャッチャーが受け止める衝撃。全身の、全存在で止めた福音剛速球の手ごたえだ。難解で有名な3章19、20節の釈義を見るがよい(138頁)。すべてのものの主であるキリストが立ち上がる。
石田版ペトロを再読しながら、ぼくは第一ペトロの連続説教の準備を始めた。マルコを説教するときは、すべての説教に「…のお方」という題をつけた。ヨハネのときには「…の神」と。第一ペトロなら「…の我ら」だ。すでに本書の区分に従った二十の説教題が出来ている。最初は「仮住まいの我ら」だ。
②の律法主義については、石田版第一ペトロにはそのかけらも見当たらないから安心してよい。各説教の結論部分を見れば自明だ。ひとつだけ紹介する。「神の霊によって養われるとき、わたしたちは…聖なる祭司となって…善意と真実、聖さと愛、神への賛美を捧げて、この世を旅することになります。わたしの魂が、神の霊によって養われてさえいるなら」(65頁)。
かくして降参したぼくは、来年、第一ペトロから連続説教を語る。
(評・大頭眞一=日本イエス・キリスト教団京都信愛教会・明野キリスト教会牧師)
『第一ペトロ書を読む 釈義と説教』
石田学著、新教出版社、2,200円税込、四六判
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