【連載】コンパッション共感共苦―福祉の視点から⑯ 日本の精神障害者処遇をめぐる闇
「この国に生まれたるの不幸」は今も
木原 活信 同志社大学社会学部教授
東京都八王子市の精神科病院滝山病院で患者虐待事件が起こった。既に刑事事件としても立件されており、今後の動向が注視されるが、これは人権を無視した残虐な暴行であったことは間違いないし、行政の監督責任も大きい。そこには、患者を一人の病める者として共感共苦するという視点が欠如し、治療、ケアするという態度は見られない。
うつ病が誰でもかかりうる「心の風邪」というキャッチフレーズの広報等が効を奏し、精神の病に対する理解と共感は少しずつ進んでいるのは確かである。しかしながら、日本ではいまだ根拠なき精神障害者に関する偏見は根強い。浦河べてるの家の当事者研究、ACT(包括型地域生活支援プログラム)の地域支援、いわくら病院の開放病棟など、先駆的な実践も散見されるが、多くは古い体質がいまだ残っているところがある。特に日本の隔離体質の病院の実態が人権侵害であると国連が勧告しているにもかかわらず、いまだに十分に改善されていない。また、精神障害関連の施設を地域に作ろうとすると近隣と「施設コンフリクト」があり、建設を反対されることはめずらしくない。また、偏見に基づく就職・結婚差別もある。
京都の岩倉村におけるコミュニティーケア的処遇など例外はあるものの、精神に障害のある者を私宅に設けられた「座敷牢」に押し込めて隔離していた時代があった。そして精神病院法成立以後の近代的な精神病院でも長期的入院を前提にした非人道的処遇を繰り返してきた。「わが国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」(『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』1918年)と嘆いた精神科医の呉秀三(東大病院)の言葉は、日本の精神医療が患者たちをいかに隔離・抑圧してきたかを如実に物語るものであった。
1970年に朝日新聞記者大熊一夫氏が入院患者を装って「潜入」して書いた『ルポ精神病棟』(1973年)は、日本の精神病院が、その看板とは裏腹に、刑罰の対象であるかのような「監獄状態」であるという実態を知らしめた。「病む心と医師がふれ合う所が病院であって、ここは『病院』の名をかたる『人間の捨て場所』であった。医師との接触はほとんどなく、入院したが最後、病状も退院時期もわからない、いわば不定期刑なのだ」(8頁)と経済繁栄で自由を謳歌(おうか)する時代の闇を糾弾した。この「告発」以降、日本の精神医療は、抜本的な改革を迫られ、患者の人権が配慮されるようになってきた。しかし世界の精神保健の趨勢(すうせい)が入院治療ではなく、地域生活へとシフトしているにもかかわらず、日本では、いまだに長期入院中心の状況にある。むろん、精神病院の必要性は否定しないが、日本の現状は、本人の意思とは別の「社会的入院」、身体拘束、入院期間の異常な長さが特徴である、、、、、
( 2023年08月13日号 03面掲載記事)
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人格に正面から向き合ったイエスの姿に倣う
冒頭で述べた滝山病院の暴行事件が今また起こってしまったことをみると、一世紀前の呉秀三の「この国に生まれたるの不幸」は、今も続いていると言わざるを得ない。これはイエスがゲラサ地方で正気を失い、社会に排除され、隔離されていた者とわざわざ対話するためにガリラヤ湖の嵐を乗り越えた姿とは対照的である。「この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった」(マルコ5章3節)というほど、人間性を喪失してしまっていたのであるが、この人とその人格(名前)と正面から向き合い、その病を癒やし、その苦しみを解放されたのである。残念ながらイエスの共感共苦に溢(あふ)れたこの姿は、一部の先駆的実践を除いて日本のキリスト教界には見られない。むしろこの闇を黙認しているか、あるいは差別の当事者であると言わざるを得ない現実がある。教会が今この問題に無関心であってはならない。