「弟子とする」ことの聖書的意味
日常的に、主との歩みの中で

申命記(Deuteronomy)6章の原則に基づき、教会と家庭をつなぎ、全世代の弟子訓練、信仰形成を目的として活動する「D6ジャパン」。昨年、今年と2度のカンファレンスを、オンライン、対面で開催した後も、定期的に「学び会」を続けている。9月4日、「聖書的世界観を身につける」の内容の一部を紹介する。(レポート・D6ジャパン事務局)

「大宣教命令」(マタイ28章19・20節)で語られる「弟子とする」ということを、私たちクリスチャンはどれだけ意識しているだろうか。D6カンファレンスで、テリー・ウィリアムズ氏は、「弟子づくり」は教会の使命であることを確認し、聖書から「弟子とすること」の意味について考えるようにと勧めた。多くのクリスチャンが教会から、信仰から離れてしまっている現実を前に、改めて、日本におけるクリスチャンの現状を振り返り、「弟子としなさい」という主の命令に耳を傾ける必要がある。

まず、「弟子としなさい」との御言葉を読む時、これまでどのような印象を持ってきたかを参加者と話し合った。 ①上下関係のイメージ。牧師の言うことは絶対であり逆らってはいけない。②黙って従う。弟子は師匠の背中を見て学ぶ。教えられるということはあまりなく、またそれを求めない。③一方向的。師匠は弟子を教えるが、弟子は師匠を教えない。相互、共同の意識は薄い。④「弟子とする」と考えるのはおこがましい。自分は弟子であると思うが、誰かを弟子とするというのはおこがましい。⑤「弟子づくり」は、牧師がするもの。信徒の働きではない。

以上のように、日本の文脈においては、「弟子としなさい」という御言葉は、聖書とはかけ離れたイメージを与えてしまっているようである。

次に、聖書の中で「弟子とする」ということについてどのように教えられているかを話し合った。まず、「誰の弟子なのか」を確認する必要性が語られた。訓練してくれる人(日本の教会では牧師)が師匠であり、目に見える人の弟子となると考えてしまう。牧師に従っていくときに、つまずいてしまうこともある。しかし、聖書は「イエス様の弟子とするように」と教えている。すなわち、牧師も信徒もイエス様の方を見上げ、イエス様の弟子となることを祈り求めることが御心なのである。

また、「弟子としなさい」と言われると、なにかプログラムを実施しなくてはいけないのではないかといったように、「何」をするのか、「どのように」するのかにとらわれ、負担を感じてしまう。しかし、「弟子とする」というのは日常生活の中でなされることなので、日常の主との歩みの中で「弟子とする」ことを意識することが大事であることを改めて確認した。特に、教会で行っている一つ一つの営みに意味があり、「なぜ、何のために」しているのかを考えつつ実践していくことを通して、クリスチャンの中に聖書的な世界観が形作られていくのではないかと話し合われた。これ自体が「神のかたちの回復」であり、神様の御心であると思うのである。

「弟子としなさい」という主の御言葉を、聖書の文脈の中で改めて捉えなおすと、日常の営みの中ですでに行っている部分が多いことにも気づかされた。しかし、私たちクリスチャンはもっと意識しながらそれを行う必要があることも再認識した。

2023年11月05日号 07面掲載記事)

『D6 教会と家庭をつなぐ次世代育成ミニストリー』 ロン・ハンター著 岩上真歩子訳 いのちのことば社 1,430円(税込)

 

□―――――――――――――――――――――――――□
【お知らせ】★週刊「クリスチャン新聞」がリニューアルしました!!★

☆新たな装い 今求められる情報を伝道牧会の最前線へ
☆紙面レイアウトを刷新 文字が大きく読みやすく
☆独自取材による特集企画で教会が今直面している重要テーマを深く掘り下げる特集企画
☆教会の現場の必要に応じた新連載が続々スタート

□―――――――――――――――――――――――――□

★「クリスチャン新聞WEB版 https://クリスチャン新聞.com/csdb/」(有料)では、
1967年創刊号からの週刊「クリスチャン新聞」を閲覧、全文検索(1998年以降)できます。