限界知り 弱さ認め 神の息吹求める

木原 活信 同志社大学社会学部教授

コンパッション(共感共苦)が必要なことは再三再四これまで述べてきたが、一方で、その課題、もっと言えばその危険性についても触れておかなければならない。それは、コンパッション・ファティーグ(感情労働に伴う疲労)という問題である。コンパッションが大切なことは自覚しつつも、対象者の苦しみに自分を同一化し過ぎて、使命感(ある場合は義務感から)思いやりを持ち過ぎるあまりに精神的に疲労し、それが恒常化し、それに伴って精神症状すら出てきて、鬱症状になったりすることがある。いわゆる「燃え尽き症候群」(バーンアウト)であるが、これは援助職全般の問題と言われている。医療、介護、福祉、教育、心理、災害現場のボランティアなどに生じるもので、二次的トラウマと言われることもある。

またあまり話題にならないが、残念ながら牧師や牧会にかかわる教会の関係者も例外ではない。牧師などの場合、専門家相互のチームで支援にあたることができずに、また信徒の手前、弱音を吐くことができずに、独りで悩みを抱えたまま、もっとも深刻な状況に陥ることがある。私自身も、多くの牧師たちと付き合いがあり、その苦悩を分かち合ってきたが、その重圧は援助専門職の場合と同様であり、いやむしろ一層深刻である。

預言者エリヤがバアルの偽預言者たちに勝利した後に、歓喜するどころか、なぜか極端なまでに自信を喪失して病み臥(ふ)せてしまったという記事を想起してもらいたい(Ⅰ列王記18章)。普通だったら、勝利に酔いしれるところなのに、勇者エリヤはエニシダの木の下に座して希死念慮(自殺願望)まで抱いてしまうほどの深刻な苦悩が記されている。このようなエリヤの弱さが赤裸々に聖書に記載されているのは意外であり、不思議であるが、むしろ偉大な預言者エリヤの苦悩を公開することを通じて、その背後にある神のみ旨を教えているのであろう。

そもそもなぜこのようなコンパッション・ファティーグが起きるのだろうか。様々な要因が考えられるが、他者の苦しみに対峙(たいじ)してコンパッションをする状況になったときに、独りですべてを抱えてしまうときは要注意である。また自分の限界を知らずに何でも抱え過ぎようとするときも注意を要する。神ではない人間は、自らの限界を知り、また自分の弱さを素直に認め、仲間に分かち合う勇気をもつことが必要である。イエスも弟子たちを宣教に遣わすときに、二人一組で遣わされたがそのことと関連しているのかもしれない。「ケアする人のためのケア」という支援団体もあるように、ケアをしようとする人への継続的な支援が極めて重要であり、ケアの専門職には避けて通れないものがある。

とはいえ、これらの注意だけでは完全にコンパッション・ファティーグを防ぐことはできない。モーセが召命された際にホレブ山で経験した「燃え尽きない柴」の話(出エジプト3章)を思い出す。自然の法則に従えば、燃えているものが何であれ、それがどんな勢いであっても、いつか燃え尽き、消え失せる。しかしモーセが目にした「燃える柴」は、そうではなかった。「なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった」(同2節)という不思議な光景がそこにあった。「なぜ柴が燃え尽きないのだろう」(同3節)とモーセは驚愕(きょうがく)する。これこそ、コンパッション・ファティーグに対する霊的メッセージである。つまり、人間には限界があり、たとえ強靭(きょうじん)な意思も、燃えるような感情も、残念ながらいつか燃え尽きてしまうものである。しかし、もしそこに神の息吹があり、湧き出る泉の源泉があるのなら、それは燃え尽きることがない。

2023年11月19日号   03面掲載記事)