《新連載》恵みの出会い① 柏木哲夫
柏木哲夫
1965年大阪大学医学部卒業。同大学精神神経科に3年間勤務し、その後3年間、ワシントン大学に留学。1972年帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。1993年大阪大学人間科学部教授就任。2004年4月より金城学院大学学長。2013年9月より淀川キリスト教病院理事長。2018年より名誉ホスピス長、相談役。
フランク・A・ブラウン先生 ―淀川キリスト教病院初代院長―
私のこれまでの歩みの中で、多大な影響を与えてくださった方々のことを、これから数回にわたってつづってみたいと思います。振り返ってみると、その一つ一つが、神さまの与えてくださった極上の恵みであったことをあらためて実感します。
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ブラウン先生は淀川キリスト教病院(大阪市東淀川区)の初代院長。医療宣教師として1956年来日された。そして、日本で初めて「全人医療」(Whole Person Care)を始められた。「からだとこころとたましいが一体である人間(全人)にキリストの愛をもって仕える医療」という意味である。病院に来られる患者さんやそのご家族は、体の問題だけでなく、精神的な問題、社会的な問題、そして霊的な問題も持っていることを知っておくことが大切であると主張しておられた。私はこの理念に感動し、私の医療の中心に置こうと思った。
私がはじめてブラウン先生とお会いしたのは、大学病院で精神科医として働いていた68年であった。できれば留学してアメリカ精神医学の臨床を学びたいとの希望を先生にお伝えした。先生は親切にアメリカ精神医学の現状を教えてくださり、具体的に三か所ほど、留学先として推薦してくださった。アメリカに臨床医として行くためには「留学試験」を受ける必要があるが、その要領についてもご教示くださった。先生のご助言のおかげで、留学試験にも合格し、私はセントルイスの「ワシントン大学精神科」で3年間の専門医としての研修を受けることができた。
ブラウン先生は真面目で寛大で、笑顔を絶やさない人であった。私の経験では、固さと優しさの両方を持っている宣教師が多いように感じているが、先生は優しさが際立った人であり、しかもユーモアのセンスがあった。多くの思い出の中で、非常に感動したエピソードを紹介したい。
先生は病院近くの宣教師館に奥さまと住んでおられた。クリスマスに新任の若い医師たちを自宅に招き、食事を共にすることを年中行事にしておられた。その食事会で私は忘れがたい体験をした。奥さまの美味しい手料理をいただいた後、雑談の時間になった。そのとき私は、「先生、このテーブル、椅子、それにあの机、素晴らしいですね」と言った。部屋に入ったときに持った印象を正直に伝えたのである。それに対する先生の言葉は衝撃的だった。「みんな粗大ゴミの置き場から拾って来たものです。私、大工仕事とペンキ塗り、ニス塗りが大好きなので、大喜びでテーブル、椅子、机を再生させました。日本人は使える物をゴミとして捨てますね。もったいないと思います」と言われたのである。捨てられた粗大ゴミを再生させる先生のユニークな発想と実行力に感動した。
私の人生をある意味で決定づけたブラウン先生との関わりについて記したい。私は72年、3年間の研修を終わって、どのような形で帰国するのがよいか考え始めた。どこかの病院の精神科の医師として働きたいとは思っていたが、出国時には何も決めていなかった。そんななか、淀川キリスト教病院と出身大学から帰国後の就職についての要請があった。ありがたいことであった。しかし、どちらにするかはかなり難しい判断であった。迷っていたとき、ブラウン先生にとにかく相談してみようと思った。先生はそのころアメリカのアトランタ(ジョージア州)に一時帰国しておられ、セントルイスからは車で数時間かかる。ご都合をうかがい、日帰りの予定で出発した。ところが、途中で車が動かなくなり、修理に時間がかかり、先生のお宅に着いたのは午前2時ごろだった。次の日は外来の当番だったので、病院に帰らねばならない。先生に相談する時間はとても短かった。それでも先生は別れ際に、「お祈りしましょう」と言われ、祈りの最後の言葉は、「神さま、柏木兄があなたの御心に沿う決断をされますように祈ります」だった。私はその場で決断した。淀川キリスト教病院で働かせていただこう、と。
(毎月第1週号に掲載します)
(2024年04月07日号 03面掲載記事)