3月に開催された、ローザンヌ運動の若手リーダー大会「JAPAN YLG 2024」の内容を抄録。今回は、最終夜の全体集会で、大会メインスピーカーの安藤理恵子さんがヨハネ17・13~26から語ったメッセージ「完全に一つになる」。

私たちは神と一つにされている
主と共にあることが宣教である

―私たちは、信仰生活や献身は貧しさや孤独をもたらす、と信じてはいないか。そこに自己犠牲を誇るヒロイズムや自己憐憫(れんびん)が隠れていないか。しかし、イエスが私たちに与えるのは、神と共にある特別な喜びではなかったか。自由と喜びの献身をイエスは示し、喜びを受け取るよう促す(13節)。

みことばによって聖別される

聖別とは、私たちの心から罪がなくなることではない。罪の醜さがありながら、自分を生きた供え物として、立ち位置を神の側に取り分けられて、そこをアイデンティーとするようにとイエスは繰り返す(14、16節)。
15節は、私たちが攻撃されないためというよりも、復讐(ふくしゅう)しないように、赦し合えるようにという祈りではないか。憎しみは喜びをむしばむ。この世と同じ生き方を続けないために、唯一それを指し示す神の言葉を、自分のものとして受け取ろうと祈る時、私たちは真理の御言葉により聖別される(17節)。
私たちを遣わしたイエスは私たちの模範となるべく、神のプライドを捨てるという聖別の姿を示した(18、19節)。私たちも自分の虚栄を捨てることで神の栄光を映し出すのだ。それによって私たちは一つとなり、人々に救い主のへりくだった姿を見せることができるのだ(20~23節)。

すべての人と一つになる

ペンテコステで私たちの中に聖霊が入り、私たちは三位一体の交わりに加えられた。私たちは既に一つ。この見えない事実を地上で体験し始める交わりが教会である。
しかし現実の教会は痛んでいることが多い。教会の誰かを常に裁いている私たち自身が怒りや恨みを捨てなければ、教会は治らない。神の教会を裁く資格は私たちにはない。裁きは神に委ねて、教会のあの人の癒やしのために祈り始めよう。祈祷会に加わろう。祈りを共にできる人を見つけて小さな祈り会を始めよう。この祈りの始まりは、三位一体の神と願いと行動を共にするという意思表明なのだ。
そして、献身者はへりくだり、教会に祈られなければならない。すると教会は建て上げられ、目覚めるべき人が目覚めていく。神は教会を通して宣教をする。

神の子としてイエスと共にいる

神の右に座すイエスの祈り(24節)は私たちもイエスと同じように愛されている神の子であると語っている。世界の基が据えられる前から私たちは選ばれ、救われ、イエスとともにいる。これは、救いの業をイエスとともに私たちも担うということ。主キリストとともにある、これこそが宣教である。神とともにいて、キリストに似た者になっていき、愛し合い赦し合うことを諦めないこと。私たちがこの姿を示すことこそ、この時代において最も説得力ある福音なのだ(23節)。
イエスと共に生きるということは、イエスから愛を学び続けるということ。イエスの「これからも知らせます」(26節)との言葉に、信仰者、献身者の希望がある。私たちは未熟で愚かだが、神と一つにされている。キリストは私たちとともに歩まれ、愛されることと愛することを教え続ける。それを確認しながら地上を歩む生き方を通して私たちは、同伴者なるキリストを世に見せる。この福音に立ち、ここに立たせるべく、人々を招こう―
(終)

2024年06月16日号 07面掲載記事)