ハマスのテロに端を発したガザ地区での戦闘から10か月、敵意はますます拡大している。暴力に暴力で対抗する世界に、キリストが十字架で示した平和はどんな意味を持つのか――昨年10月、本紙提携の米誌クリスチャニティトゥデイが掲載したキリスト教非暴力主義の論客、マイルス・ウェルンツ氏の論考から考える。

暴力は罪の〝合理的〟治療法ではない

暴力は、人間の悪の起源とほとんど区別がつかないほど密接に関わっていると言われる。アダムの罪の直後、暴力はまず動物から皮膚を奪い(創世記3・21)、次に兄弟を殺し(4・8)、最後には地球全体に及んだ(6・11)。イサク対イシュマエル、ヤコブ対エサウという部族の世代間の争いに根を下ろした暴力は、大洪水を経て、その先の世界へと人類を追いやっていく。多くの共通点を持つ国々が、その共通の歴史によって分断される――これは聖書の物語であり、私たちの世界の物語でもある。
キリストが弟子たちに、もう一方の頬を向け、迫害者のために祈り、求める者には見返りを期待せずに与えよという教えを授けたのは、この暴力的な世界においてであった。イスラエルで起きたハマスによるテロ攻撃のような恐怖に直面しているときには、イエスに従うことは不可能に感じられる。このような世界で、誰がそのような生き方ができるだろうか?
しかし、それこそがイエスが命じたことであり、イエスが死なれ、復活されたこの暴力的な世界なのだ。この暴力的な世界にこそ聖霊が遣わされたのであり、その聖霊の実とは平和、謙遜、優しさ、善意である(ガラテヤ5・22〜23)。おそらく私たちは、このような賜物や教えは暴力的な世界にはふさわしくないと考えるだろうが、イエスはそうではなかった。

力による対応の破綻

もう一方の頬を差し出し、敵の善を求めるという、大きな暴力に対するアプローチは無意味に思えるかもしれない。教会史上の多くの人々が、キリスト教平和主義に対してまさにそのような評決を下した。おそらくこれらの教えは、歴史を超えた世界を描写しているのだろう。それは来るべき時代においてのみ、私たちが聞き入れることのできる命令なのかもしれない。だがそれでは、私たち全員を含む自分の敵を愛されたイエス(ローマ5・10)と矛盾する。
あるいは大きな悪に直面したときには、限定的な力で対応することが正当化されるのであって、イエスの命令は対人関係だけに向けられたものだという反論もある。だがこれも、キリスト自身の例と比較すると破綻している。ペテロがゲッセマネでイエスを守ろうとしたとき、イエスは敵を癒やし、ペテロの剣をさやに納めさせ、死ぬために去って行った(ヨハネ18・1、ルカ22・51)。
暴力の使用はいずれ限定的になるという見通しは、極めて合理的に見えるかもしれない。しかし、罪の帰結である以上、暴力はそう簡単には抑えられず、理性的なものにはならない。暴力は、それがテロリズムのような悪に対する善意の報復であったとしても、欺瞞(ぎまん)に満ちている。暴力はその性質上、私たちが期待する以上の破壊をもたらすのだ。


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ベツレヘムの西岸の壁に描かれたバンクシーのストリートアート

キリストは暴力の正当化を拒否する

キリストの教えが提供するのは、暴力という非理性的なものを正当化することの拒否である。暴力を「理解できる」とか 「合理的」と呼ぶことを拒否することである。テロリズムを合理化しようが、お返しの暴力を正当化しようが、罪を最小化したり、その論理に従ったりすることを拒否することである。
罪深い世界で暴力がどのように起こるかを説明することは、子どもたちのために泣いているラケルへの慰めにはならない。音楽祭で何百人もの死者が出たことをどう説明するのか。一般家庭を襲うロケット弾をどう説明するのか? その殺人に応戦した爆弾が民間のアパートを襲い、ベッドにいた子どもたちを殺したことをどう説明するのか? いったいどんな理由があるというのか?
暴力は一様ではない。テロと報復は同じではないし、民間人を殺すこととテロリストを殺すことは同じではない。しかし、その中身によって暴力の社会的正当性を等級分けしようなどと考えるなら、私たちは危険な領域にいるのだ。その暴力の倫理性はどれほどか、などと考えてはいけない、、、、、、、

2024年08月18・25日号 06面掲載記事)