8月30日に大阪クリスチャンセンターで開かれた「非聖書的および新使徒運動問題の講演会」(9月15日号既報)における、坂本兵部氏(日本基督教団葦のかご教会牧師)の講演「『新使徒運動』のパン種は私たち牧師の罪です〜教会を『カルト化』から守るために〜」の内容を紹介する。


8月30日、大阪クリスチャンセンターで講演する坂本兵部氏。多様な教派から約110人の牧師らが参加した

〝成果〟を求めて〝並外れた指導者〟に依存したい思いが牧師にも信徒にもある

私は若い頃、不健全な教会の働きに加わったことがあります。深い傷も受けましたが、自分の罪も示される経験でした。多くの方々に支えられて、主から回復の恵みをいただきつつ、牧師として働いています。
そのような経緯もあって、日本各地から教会のカルト化に関する相談を受けるようになりました。またこの数年は、長く親しく交わってモデルチャーチと仰いでいたある教会に、新使徒運動の傾向が顕著に現れ、何人かの先輩牧師たちと共に、その教会の主任牧師に懸命に翻意を促しましたが、聞き入れていただけず、心を痛めたりもしています。今日はそうした関わりの中で学んでいることを、分かち合いたいと思います。

 

牧師にとって「逸脱」とは何か

そもそも私たち牧師は、何のためにイエス様に召されたのでしょうか。「私のような者が十字架で贖われた」という感激が、召しの前提としてあったはずです。その恵みの延長線上で、「私のような者を通して、たとえ誰か一人の回復のためにでも、主に働いていただくように」という召しを受けたのです。その召しの中に留まることが、牧師の喜びであり、満足であるはずです。
ところが、働きを進めるうちに、徐々に別の喜びを味わい始めます。メッセージをほめられたり、教会員数が増えたりする中で、いつしか無意識のうちに、自分の〝成果〟を追求しがちなのです。自分を実際より霊的に見せかける術にも、徐々に長けたりします。言わば、主を愛するふりをしながら、密かに〝自分の国造り〟を進める根性が発動するのです。この罪から自由な牧師はいません。

 

「新使徒運動」は、なぜ破壊的なのか

「新使徒運動」とは、組織の〝実体〟があるわけではありません。それは誰の心にも発動し得る、悪しきパン種なのです。ですから、それに染まった団体をリストアップして絶縁を宣言するだけでは、問題の解決になりません。
「新使徒運動」において最も破壊的なのは、「『並外れた指導者』の持つ特別な霊的知識・霊的能力の下で、教会は改革されなければならない」という主張です。そのような「並外れた指導者」を自任する人々は、とても魅力的です。しかし、牧師が彼らをロールモデルにすると、その働きは必ず〝拡大〟を目標とするようになります。教会には奇妙な上昇志向がはびこり、「祝福は上から下に流れる。だからリーダーに従うべき」という教えによって、肉的支配が正当化されたりもします。
「リバイバルのために『並外れた指導者』への従順が必要」と主張する人は、「キリストがすべて」という信仰を否定して、「もっと優れた霊的知識が必要」だと唱えているのです。それは初代教会時代にグノーシス主義が、「十字架の主イエスだけで充分」という信仰告白をゆがめて、真理の上に形成される聖徒の交わりを壊したのと同じです。そのパン種は、不健全な分裂という実も結びます。昔も今も同じです。

 

「新使徒運動」的なものに、なぜ人々は食いつくのか

私たち牧師は皆、それぞれ劣等感があります。その密かな劣等感を、働きの〝成果〟で埋め合わせたいという思いも、無意識のうちに持っています。ですから、宣教の実が乏しくて苦しんだり、自分の弱さに悩んだりしている時に、「新使徒運動」的なものが〝突破口〟と感じられることがあるのです。牧師がそのパン種を取り込むなら、教会は「リバイバル」という〝金の子牛〟を崇拝する状態になります。なぜなら、信徒たちは基本的に牧師を敬って、説教を真面目に聴きますし、彼らにも閉塞状況の迅速な打破や成功体験への渇望があるからです。
そんな信徒たちが自分を、「並外れた指導者」と仰ぐように仕向けることは、牧師には難しくありません。しかし、それは共依存の道であり、教会が主の御名を語りながら「信じたいものを信じる」道なのです。

 

「新使徒運動」的な傾向が指摘される団体(その指導者)の特徴

そのパン種を取り込むと現れる特徴の一つ目は、「特別な油注ぎのある指導者に従えば祝福される」と強調することです。洗礼時に牧師への絶対服従を誓わせる教会すらあります。
二つ目は排他性です。他の教会を蔑んで声高に批判したり、他の牧師の説教を聞かないように指導したりします。外部向けには語らないメッセージで内輪を統率することもあります。自分の中にこそ「真の霊的知識がある」と思い込んでいるので、「すべての教会が自分たちのようなシステムに変えられるべき」と言うこともあります。
そのほか、直接啓示の強調、指導者に対する戒規の不在、なども挙げられます。

 

愛の交わりに守られて

そのような悪しきパン種を、もしも愛する同労者の内に見たら、私たちはどうすべきなのでしょうか。
「カルト化」が指摘される牧師や、彼らを擁護する人は、批判への反撃として「裁いてはいけない」と主張する傾向があります。しかし、「戒める」ことと「裁く」ことは違います。ダビデが心揺らいだり、堕落したりした時、アビガエルやナタンは命懸けで戒めました。ダビデもまた、彼らからの真の愛を受け取りました。私たち牧師は自らを、フラットで透明な「交わり」の中に置いて、守る責任があるのです。

 

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