7月8日号紙面:古代教会に学ぶ異教社会のキリスト教第2回 神戸改革派神学校校長 吉田隆 初期キリスト教の驚異的成長
2018年07月08日号 07面
第一部 古代教会の伝道
初期キリスト教の数的進展
さて、最初に皆さんと学びたいことは、初期キリスト教会がなぜ驚くべき成長を成し遂げたのかということです。
まず、当時のローマ帝国全体のイメージを頭の中に浮かべていただきましょう。その広大な帝国は、北はイギリスから南は北アフリカ一帯。西はスペインやポルトガルのあるイベリア半島から、東はメソポタミアと呼ばれる地方までです。これらの地域がたった一つの国家のもとに治められていました。
また、当時の町の大きさを実感するために(学説に基づいた)主な都市の規模を申し上げれば、1世紀の首都ローマは人口約65万人、エジプトのアレクサンドリアは40万人、エペソが20万人、アンティオキアが15万人ほどであったと言われます。皆さんが今お住まいの町や近隣の都市の規模と比較してみてください。当時は都市と言っても、それほど人口が多かったわけではないことがわかるでしょう。東京や大阪のような大都市はありませんでした。
ただ今日の都市と違うのは、古代の都市は、外からの侵入者を防ぐために基本的には城壁で囲まれていたという点です。ですから、ただ町が大きく横に広がっていたのではなく、限られたスペースの中に人々が生活していたために、相当の人口密度であったようです。古代ローマには4階建てくらいの高層アパートもあったと考えられています。低くても2階、3階建てのアパートが密集しているという状況です。ちょうど東京や大阪の下町の人口密集地域で家々がつながっているように立ち並んでいる、そんな状況に近かったのではないかと思います。
ですから、このようなローマの街に点在していたいわゆる「家の教会」は、大きな一戸建ての家がボンボンボンと建っていて、そこで皆が家庭集会をしているというのとは、およそ異なる状況だったろうと思われます。少なくともローマの中心部における「家の教会」は一戸建ての家などではなく、風呂もトイレもない六畳一間に6~7人の家族が住んでいる、昔の長屋かアパートの一室のような所だったことでしょう。しかも、ローマでは上層階の住人がゴミや汚物を窓から通りに投げ捨てていたため、街の衛生状態はきわめてひどかったと言われます。このような街の中で、しかし、キリスト者たちは信仰に導かれ、集会を持ち、日々の生活を営んでいたのです。
新約聖書の時代である1世紀の教会は、「使徒の働き」に出てくるような町々に、少しずつ生み出されていきました。パウロはひょっとするとイスパニア(スペイン)にまで行ったかもしれません(ローマ15・24)が、特に教会が多かったのはユダヤ人キリスト者たちが住んでいたパレスチナ地方や、トルコ半島からギリシアにかけての町々ではなかったかと思われます。
それが2世紀になりますと、西は今のフランスから東はメソポタミア地方(ひょっとするとインド?)、さらには北アフリカの一部にまで拡大します。そして、4世紀の初頭、すなわちキリスト教への迫害が終焉を迎える頃には、ローマ帝国のほとんどすべての地域にわたって教会が存在するようになるのです(地図参照)。
2世紀初頭に地方総督を務めていたプリニウスという人は、すでにこの時代に「草深い村々に至るまで…疫病のように増え拡がっている」キリスト教徒をどう扱えばよいのか途方に暮れて、時の皇帝トラヤヌスに書簡を送っています。あらゆる世代、あらゆる階層に〝無差別に〟広がっていくキリスト教を「疫病」と称したのは言い得て妙です(使徒24・5参照)。もちろん、キリストの福音は、人々をむしろ死の病から癒やす薬であったわけですが。
ともあれ、さすがのローマ皇帝もキリスト教を迫害するよりは公認して利用したほうがたやすいと考えるほどに、驚くべき成長を遂げたのです。
それは奇跡か?
さて、このような初期キリスト教の驚異的成長は、はたして一つの奇跡なのでしょうか。それは、YESでもNOでもある、というのが私の答えです。ここではまず、奇跡ではなかった(成長には、それなりの合理的理由があった)という説明から紹介しましょう。
2014年に日本語に訳された『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社)という大変興味深い書物があります。これを書いたロドニー・スタークという人はアメリカの社会学者で、キリスト者でもキリスト教の専門家でもありません。この人が初期キリスト教の驚異的成長を、歴史統計学や社会学的手法を使って分析した結論によれば、それは決して奇跡ではなく当然の結果であった、というものでした。この結論は実に興味深く、同時にまた私たち日本の教会にも大きな示唆を与えるものです。
次回から、そのことについて見ていきましょう。