東日本大震災から10年を迎えます。この災害を教会、個人はどのように迎え、痛みを覚え、祈り、考え、行動したか

いのちのことば社で刊行された手記について、クリスチャン新聞の当時の記事から振り返ります。

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日本伝道会議(JCE)5と6の間に東日本大震災が起きた。その経験から学んだことを神学的に深めようと「痛みを担い合う教会」プロジェクトが発足した。被災地域の多くが過疎で教会の少ない典型的な地方で、教会と社会や教会間の共生の課題が浮き彫りにされたことから、JCE5の「地方」「共生」両プロジェクトが合流。ワークショップで岩手、宮城、福島各県からの発題を受け、話し合った。
【根田祥一】
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宮城県の松田牧人氏(バプ同盟・利府キリスト教会牧師)は、人間の複雑で多様な痛みを単純化し、「神様がすべて益とされる」などと過小評価する落とし穴を指摘。一方、自身が被災地支援の中で燃え尽きた経験を踏まえ、キリストにある者としてより「被災者」「病人」である自己理解が心を占めるなど、痛みを過大評価する落とし穴にも触れた。「痛みを担う」とは、人の痛みを理解することに努め、寄り添い、手当てをしながら、みことばの真理を語り悔い改めを促すことだとし、福音を余すところなく語る「骨太の福音」でなければならないと述べた。

福島県の木田惠嗣氏(ミッション東北・郡山キリスト福音教会牧師)は、震災後の福島の痛みが放射能汚染による不安やコミュニティーが破壊された痛みだと指摘。教会ネットワークで励まし合い痛みを共有したが、牧師らが転勤を余儀なくされ相次ぎ亡くなるなど、福島の宣教を誰が担うのかが問われた。ピレモン書から、パウロがコロサイ教会とピレモン家に生じた痛みを丁寧に取り扱い祈っている中心に「信仰の交わり(コイノニア)」があることに注目。そこにコミュニティーの痛みに和解の福音がどう働くかのヒントがあると捉え、被災地と非被災地の教会の双方向の交流によって、生きて働く信仰の交わりが形成されることに願いを託した。

若井和生氏(単立・飯能キリスト聖園教会牧師)は、震災時に岩手県内陸部の教会から三陸沿岸の津波被災地支援に携わった経験を通して、教会が地域に立てられていることの意義を知らされ、地域に対する視点や配慮が教会にないことを示された。被災地の痛みに向き合いながら、自ら立っている地域の痛みには関心が乏しい。震災を通して地域への宣教の新しい扉が開かれたが、なぜ地域に開かれた教会形成ができなかったのか、なぜ人々の悲しみや痛みを担うことができなかったのか、検証する必要を感じた。教会の本来の務め・使命は何か、教会とは何かということが揺さぶられ、「痛みを担う教会」とは何か、みことばと改めて向き合ったという。

2016年10月23日号から

『痛みを担い合う教会 東日本大震災からの宿題』
第6回日本伝道会議「痛みを担い合う教会」プロジェクト編
発売日:2017/09/25

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