解放と完全な一致

去年のイースターは新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、非常事態宣言が発令されたことで、全国の多くの教会が礼拝堂に集うことを断念せざるを得なくなりました。今年のイースターもコロナ禍のなかで迎えることになります。

この一年、「不要不急の外出自粛」の要請が繰り返され、今現在に至っても閉塞感が社会全体を覆っています。あまりにも長い期間、活動の自粛や制限が求められたからでしょうか、何か「囚(とら)われの身」となったような感覚を覚えた人も少なくないのではないでしょうか。

イエス・キリストの復活をお祝いするイースターは、死の力に囚われたすべての人への解放宣言です。聖書には、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章24節)と「死の力」に囚われている人の解放を求める叫びが記されています。

聖書はアダムの罪の結果として死がすべての人にもたらされたと教えています。死の力とは引き裂く力です。死の力は魂と肉体だけでなく、神と人との関係も引き裂き、断絶をもたらしました。しかし、復活の力とは死の力を打ち破り、死が引き裂いたものを元の状態よりもさらに良い、「完全な一致」をもたらします。すなわち、朽ちない栄光のからだと神との永遠の一体をもたらすのです。

 

 「妬み」と「嫉妬」は 違う

 

イエス・キリストの復活の原動力、死の力を打ち破るほどのエネルギーの源泉とは何であったのでしょうか。「神は全能だから」との一言では済ませたくありません。十戒の第一戒では、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と偶像崇拝を禁じています。

また、第二戒でも、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」と重ねて偶像崇拝が禁じられています。神は偶像崇拝を厳しく禁じる理由として、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」(出エジプト20章5節)だと言われました。

「えっ、妬(ねた)み」と思う人がいるかもしれません。「妬み」という言葉が持つイメージは神の真実な姿を反映していないばかりか、ひどくゆがめています。辞書で「妬む」を引くと、「他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む」(大辞泉)とあります。この定義によると、神が偶像崇拝を厳しく禁じられるのは、「人が偶像を崇拝すると、偶像をご自身よりもすぐれたものと妬ましく思うから」になります。 神は偶像にやきもちを抱かれることはありません。「この神に、ライバルは存在しない」(ハワーワス&ウィリモン)。また、「妬む」という感情は真実な愛とは全く無関係です。

この「ねたむ」と訳されるヘブル語は旧約聖書のなかで6か所しか使われておらず、そのすべてが神の強い愛を表しています。神の愛の強さを表す言葉は妬みではなく、嫉妬です。

日本語の「妬み」と「嫉妬」は混同されています。しかし、妬みと嫉妬は全く別物です。妬みは自分よりも多くを持っている人を羨ましく思う気持ち、羨望です。ただ、それだけです。

嫉妬は自分が所有しているものを奪われることへの危機感と奪う者に向けられる敵意です。誰かが自分の幼い子を連れ去ろうとしたとき、親が子どもを誘拐犯から守ろうとするときの強い感情に例えることができます。親は全身全霊の力で子どもを取り戻そうとするでしょう。

妬みと嫉妬の決定的な違いは「自分のもの」を奪われることへの強い危機感と奪う者への激しい敵意の有無です。神が偶像崇拝を禁じられたのは「ご自分のもの」、神の似姿である人が神の御姿に似ても似つかない偶像の所有(奴隷化)とされることがどうしても耐えられないからです。神は人が罪と死の奴隷、不当に所有されていることが耐えられず、激しく嫉妬されるのです。いかなる犠牲を払ってでも取り戻そうとする嫉妬こそが神の愛の強さです。

 

 「あなたは、わたしの もの」と言う神

 

預言者イザヤはバビロン帝国の捕囚の民、奴隷となっていたイスラエルの民に向けて救いの希望を語り続けました。イザヤを通して語られた神の言葉には「ご自分のもの」への強い愛があふれています。イザヤ43章の言葉を引用します。

 

「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」(イザヤ43章1節)

 

神はバビロンの捕囚の民となっているイスラエルに向かって、「あなたは、わたしのもの」だと宣言されました。これこそが、神の救いの宣言です。神が私たちに向かって、「あなたはわたしのものだ」と宣言されるとき、一体誰が、「いや、違う。私のものだ」と神に反論できるでしょうか。最後の敵である死さえ沈黙させられるのです。

神が「あなたは、わたしのものだ」と主張されるのは支配欲からではありません。「わたしがあなたを贖ったからだ」との「贖いの代価」を支払われたこと、大きな犠牲を伴う強い愛からです。

古代社会では、負債の返済に窮した人は債権者の奴隷となりました。贖いの代価は、奴隷となった人を近親者が買い戻すための代価でした。

イエスの十字架の死は、罪の奴隷となっていたすべての人の「贖いの代価」、買い戻すための代価として支払われたのです。そして、イエスが死の力を打ち破り、よみがえられたのは、死の奴隷となっていたすべての人を解放し、「ご自分のもの」とされるためなのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43章4節)。ハッピー・イースター。

豊田信行=単立ニューライフキリスト教会牧師

 

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