避難か、支援を続けるか 私の3.11~10年目の証し いわきでの一週間⑦

写真=GMCで支援について話し合う。右が森さん。当時

私の3・11」第三部は、私と当時出会った人たちの体験を中心に、10年を振り返る。【高橋良知】
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▼2011年3月14日

私はいわき市のグローバル・ミッション・チャペル(GMC、平キリスト福音教会)で避難させてもらっていた。教会のメンバーは市内各地に救援に出かけ、私や何人かはチャペルに残った。原発事故による放射能についてのニュースがラジオで流れていた。伝道師の五十嵐義隆さんや阿部俊弥さんの幼い子どもたちと室内で遊んだり、大学の図書館から借りた本を読んだりして過ごした。時折余震が起き、電気はついたり消えたりした。水道は出ていたが枯渇の心配があり、トイレの水はためたままで使った。

 ▼3月15日

この日のデボーション誌『マナ』の個所はⅠ歴代誌19章。

「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる…」(13節、新改訳第三版以下同)。

GMCの牧師、森章さんは、集会奉仕のために京都にいたが、この日、伊丹空港を出発した。内陸部にある福島空港から沿岸のいわきに向かうと反対車線は避難する車で混み合っていた。被災状況を見て、「何かをしなければいけない」と思った。

森さんはノルウェーの宣教団から派遣されており、妻のアニケンさんはノルウェー人だ。宣教団からは「国の方針として宣教師の帰国が要請されている」という連絡がアニケンさんにあった。

「宣教団が帰って来いと言っているけれど、あなたはどうする」

「船の船長は何かの時に最後まで船に残るそうだ。教会の牧師として一番最後まで残るのは自分だと思っている。神様が動けと言うまで動くつもりはない。でもあなたは戻ってもいいよ」

「私も同じ思い。今帰ったら一生後悔することになると思う」

教会に戻り、再会を喜びつつ、すでに始まっていた救援活動について教会メンバーと話し合った。千葉県の長老教会・おゆみ野キリスト教会のダニエル・アイバーソン牧師(当時)から救援の受け入れについて問い合わせがあった。「『救援を受け入れてくれる教会が見当たらない。GMCが受け入れをしていると他の教会にも伝えていいか』と言われ、『どうぞ』と答えた。その後、毎日のように様々な教会から支援が届くようになりました」

 ▼3月16日

この日の『マナ』の個所はⅠ歴代誌22章。「ただ主があなたに思慮と分別を与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように」(12節)。ダビデを通してソロモンについて語られた言葉だ。

このころGMCにかかわる教職者、伝道師は、放射能問題がある中、皆で避難するか、支援活動を続けるか、神の判断を求めて夜通しの祈祷会を開いた。私たちも別室で祈りの結果を待った。

いわきに来て一か月ばかりの阿部さんは避難所の人々の姿に心を探られていた。「避難所にあるお母さんと赤ちゃんがいたが、旦那さんは消防団の救援活動で4日間帰ってこない、忙しくて連絡も来ないという。このような方々を見捨てられない」と思った。

いわきに来た理由も振り返った。当時青年ミニストリー「ラブレボリューション」の働きで、「生活を通して主の弟子づくりをする」という目的で青年たちとの生活がいわきで始まっていた。さらに仕事にしていた乳飲料業の物資やトラック、丈夫な教会堂や救援に動ける人々の存在などに「神の導き」を感じた。

教職者たちの祈りの結果は、支援を続けるということだった。
私自身は迷っていた。この日は、阿部さんとともに、避難所を訪ね、着の身着のまま身を寄せ合っている人々の姿を見た。携えた水や食料を見て、深く頭を下げてくださる支援員の方々がいた。ポツリポツリと語る被災の状況、必要な物について耳を傾けた。

一方で、学生時代を過ごした仙台と教会の状況も気になっていた。そんな矢先、所属している教派と日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)が連携して全国規模の救援活動を21日から始めるという情報が入った。「あと数日いわきにとどまり、仙台に合流しよう」

 ▼3月17日

おゆみ野教会、グレースシティチャーチ東京などの救援チームがいわきに到着した。(つづく)