書評『シャローム・ジャスティス』暴力・非暴力の枠組みを超えて
神学 暴力・非暴力の枠組みを超え 聖書神学から捉える「シャローム」
邦訳出版された新刊『シャローム・ジャスティス』は、メノナイトの非暴力・無抵抗主義という「平和神学」のイメージを破るユニークな視点で聖書のシャロームを再考する。著者は現在のメノナイト派を代表する旧約学者だが、本書には、著者がフィリピンで経験した弱者への抑圧の現実も反映している。
教会が語る平和は〝中流階級の贅沢〟か
このたび、ペリー・ヨーダー教授の主著の一つが『シャローム・ジャスティス』として翻訳出版され日本に紹介されることを、合同メノナイト聖書神学校(AMBS、米国インディアナ州)にて彼に学んだ教え子の一人としてうれしく思います。
本書には著者の詳しい経歴に加えて10頁にわたる「訳者による解説」が巻末にあり、本書の構成と各章の要約、本書をいま翻訳出版することの意味、さらには著者のその他の業績の紹介まで、評者が付け加えるべきことはほとんどないくらい、とても丁寧にカバーされています。これを読んで本書を手に取られた方には、より体系的で整えられた「訳者による解説」をぜひともお読みいただきたく、以下ではできるだけ解説とは重ならないように、本書の意義をつづってみたいと思います。
本書の原題は『シャローム|救い、正義、平和を表す聖書の言葉』というものです。聖書にある程度親しんでいる読者が、平和について関心をもって本書を手に取ったならば、その期待はかなりの確度で裏切られることになるかもしれません。というのも、本書の主眼は「シャロームのために平和を断念すること」にあるからです。現代のキリスト教会は平和の問題をあまりにも「暴力か非暴力か」という枠組みで捉えすぎてはいないか、そのため不正義の犠牲者に対しても非暴力の「平和」を唱道して、結果的に不正な現状維持に加担し、教会で語られる平和が「中流階級の贅沢(ぜいたく)」になってはいないか、との問いかけです。そこで、平和について聖書から学ぶためにヘブライ語のシャロームに注目するのではなく、まずシャロームという言葉の意味の探求から始めて、私たちの聖書的平和の理解を批判的に検討していきます。
ですから本書は、現代人の「平和」理解の枠組みに沿って聖書を扱うことをしません。
聖書本文の中でシャロームが意味することを拾い上げる手法をとります。そしてそれが「元気(創世記29・6)」「(身体の)健全(詩篇38・3)」「友好のことば(申命記2・26)」「親しい者(詩篇55・20)」「安心(士師記19・20)」「無事(Ⅱサムエル18・29)」「繁栄(詩篇37・11)」「(豊作による)安らか(レビ記26・5)」「(戦勝による)安らか(エレミヤ43・12)」など、実にさまざまな言葉で訳し分けられていることが示されます。シャロームは旧約全体では250か所に、一説では14の異なる意味で用いられていると言われますが、実にシャロームとは、すべてのものがあるべき状態にあることであり、それらすべてが「平和」と訳されるわけではありません。言い換えるなら、それだけ私たちには気づきにくい形で、聖書ではシャロームがあちこちに語られているのです。
「救い」「律法」の再検討を迫る 神による解放
いわゆる「平和」にとどまらないシャロームの意味の広がりから、本書はシャロームを正義や救いを表す語としても捉え直しています。シャロームはしばしば正義と並立的に用いられ(イザヤ32・17、ヤコブ3・18)、物理的・身体的な苦境からの解放、不平等の改善や権利の回復といった関係性の正常化、道義的に誠実で責めるべきところがないことを意味します。シャロームに対応するギリシャ語(エイレーネー)では神の属性としての意味(「平和の神」)が加わることから、シャロームは聖書的正義の理解にとっても不可欠となるのです。
さらに本書は、人間を身体的・社会的にあるべき状態へと導く神の働きという意味で、シャロームに救いの意味を読み取り、そこから、もっぱら霊的に捉えられがちな救いについての理解の再検討を迫ります。むしろ聖書的な救いの本旨は、出エジプトにみられる物理的な抑圧からの解放であり、それは新約聖書においても同様であること、罪を対象とするのは救いよりもむしろ赦しであり、それは刑罰よりも原状回復や関係修復により実現することが説き明かされます。加えて、救いとしてのシャローム理解は、とかく否定的に捉えられがちな律法の捉え直しをも促します。奴隷だったイスラエル民族がエジプトから救い出されたのは、彼らが罪を悔い改めたからでも、律法を守ったからでもありませんでした。まず神による解放(救い)があって、それへの応答として示されたのが律法の諸規定なのです。律法は救いを得るための条件ではなく、神の救いに対する応答である、という位置づけは新約の書簡においても踏襲されています。
メノナイト教会は、クエーカーやブレザレンと並んで歴史的平和教会ともよばれ、とりわけ20世紀の良心的兵役拒否で知られ、現代に至っていますが、本書は単にメノナイトの平和理解を他教派・他宗教(無宗教を含む)の人たちに喧伝(けんでん)するだけでなく、メノナイトに典型的な平和理解への挑戦ないし問題提起としても書かれています。冒頭の「中流階級」には、聖書的無抵抗を掲げてこの世と距離をとりつつ社会に安住するメノナイト教会が含まれます。その安住がさまざまな不正義や暴力により支えられていること、そのシステムに目を向け、変革のために(ときには実力を行使して)“たたかう”ことを、本書は大胆に提案します。
ヨーダー教授は授業の中で、ご子息がキリスト者平和隊(CPT)に入隊していることを話してくれました。CPTは『平和つくりの道』の著者ロナルド・サイダーの提唱で1988年に設立された、紛争地域への市民的介入を実践する組織です。平和づくりの訓練を受けた隊員が非武装で現地の市民に寄り添い、暴力を抑止する活動をしています。本書は平和の聖書神学はもちろん、平和教会の実践にも大きな刺激と発展を促しているのです。
シャローム・ジャスティス
聖書の救いと平和 ペリー・B・ヨーダー著
四六判 320頁 2,530円(税込) いのちのことば社
著者ペリー・B・ヨーダーはメノナイト派を代表する旧約聖書学者。米国インディアナ州のメノナイト合同聖書神学校(AMBS)旧約聖書学教授〔2005年に引退し、現在は名誉教授〕。ペンシルベニア大学より古代近東言語・文学の分野でPh.D.を取得(1970年)。1984年には、4か月間フィリピンの基礎キリスト教共同体を訪れ、正義をめぐる課題について議論し対話を重ねた。その期間と、1985年夏の同様の訪問期間に、本書で展開した考えを試し、洗練させた。
【評】片野淳彦(かたの・あつひろ)
メノナイト平和宣教センター理事長。中央大学大学院、メノナイト合同聖書神学校を修了。法学修士・平和学修士。酪農学園大学ほか非常勤講師。東北アジア地域平和構築講座(NARPI)講師(修復的正義)。NPO法人RJ対話の会理事。