木原 活信 同志社大学社会学部教授

2021年に改正・障害者差別解消法が成立したことにより、これまで努力義務だけであった民間事業者においても合理的配慮が法的義務とされ、多くの事業者が対応に追われている。実際に法律が効力を発する施行は数年後である。合理的配慮とは、障害者を取り巻く障壁を取り除くために社会がすべき調整や変更(配慮)のことである。06年国連で採択された障害者権利条約を根拠としている。例えば、車いす利用者が、スロープが無く、階段しかない店を利用したとする。この場合、障壁を作っているのは事業者側であり、原因を取り除くのは障害者自身の「努力」ではなく、事業者側の「思いやり」でもなく、事業者側の「義務」ということになる。

ではどの程度までそれを実行しなければならないのかの判断は難しい。法律的には「実施に伴う負担が過重でないとき」とされているが、それがまさに「合理的」という言葉で示されている点である。たとえばそれを実施することで事業者の経営が破綻してしまうとなれば「過重な負担」ということになる。合理的配慮は原文では、reasonable(合理的)+ accommodation(配慮)である。ここでのreasonableは、障害当事者と社会(事業者)の双方にとっても理にかなうという意味合いである。つまり双方が対話によって合致されて納得された判断ということである。

このたび改正により民間事業者にもその責任が及んだことにより、私の勤めている大学でも、学生へのより具体的な個別支援に向けた専門部署も設けられ、関係者は奔走している。それ以前にも障害学生支援ということで様々な支援を積極的に行ってきたが、改正を受けて、より徹底されるようになった。目にみえる障害はもちろんであるが、見えない障壁への配慮も特に注意がいる。たとえば、発達障害の学生からは「指示の仕方は個別に具体的に」、精神疾患のある学生は「授業への参加方法の配慮」、「うつ病であるためレポート期日を遅らせて欲しい」、「不安障害があるので座席を後部にして欲しい」など、一つのクラスでも複数の個別の配慮要望があがってくる。

法的義務を超えて愛を世に示す

さて教会はどうであろうか。ある教会でこの合理的配慮の話をしていると、「そんな話聞いたことがない。まったく知らなった。教会は関係ない」などと牧師や役員が話していた。このようなことならば、今後、改正された法律が実際に施行されると混乱は避けられない。法律上において教会がどう位置づけられるかは別として、今、公私こぞってこの対応(準備)をしている時に、教会がこのことに対して無知か、遅れをとってしまっているのならばそれは由々しきことである。特に教会は目に見えない精神的障害等に対する「合理的配慮」は、大きな課題となるであろう。

中風の男を、その4人の仲間が、屋根を剥がしてイエスのもとに連れてきた話を思い出す(マルコ2章1~12節)。「屋根を剥がして穴をあけて」というのは常識はずれの大胆な行動であるが、それに対するイエスの言動は興味深い。逆に「群衆のためにイエスに近づくことができなかった」というのも悲しい現実であるが、同席していた律法学者たちの冷ややかな眼差しに比して、イエスは中風の男へ愛をもって接し、そして4人の仲間の中風の男への態度を高く評価された。その態度とは、苦しむ者への徹底的な共感共苦であり、そしてイエスへの信頼(信仰)であった。今、社会は法的義務となったゆえに、個別の配慮内容を必死で検討中であるが、教会は、これらの義務感からというより、率先して、合理的配慮を先取りして推し進め、そしてあの4人の仲間に倣って、共感共苦に基づく並々ならぬ愛の配慮を世に示していくべきではないだろうか。
クリスチャン新聞web版掲載記事)