【福島沿岸に住む】地方宣教「共働」のあり方模索 浪江・小高伝道所牧師
「すでにキリストが働かれていた」
小高伝道所外観
福島県南相馬市南部、JR小高駅から西に伸びる通りに、三角屋根の玄関と幼稚園の看板が立った教会堂がある。日本基督教団小高伝道所だ。小高地域は2016年まで帰還困難区域に指定され、信徒は各地に避難した。12年から一時立ち入りが許可され、クリスマス礼拝など単発の集会を開いてきた。19年からは月に一度の礼拝を再開している。定期的に参加する同教会の信徒は1人だけだが、同教団東北教区相双・宮城南地区の教会などから、コロナ禍前は18人前後が出席・奉仕して支えた。
震災発生時の3月11日午後2時46分で止まった時計や予定表が残る
小高伝道所の礼拝の様子
昨年から代務者として東京から通っていた飯島信さんは、今年4月から移住し、7月に牧師就任式を迎えた。隣接する浪江町の浪江伝道所と兼牧する。
小高伝道所の設立は1903年。3代目牧師には、社会運動家として知られる杉山元治郎がおり、幼稚園(廃園予定)とともに、町の歴史に刻まれている。
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今年6月26日の礼拝に記者は出席した。説教は使徒3章1~10節、生まれつき足の不自由な男の癒やしの場面から。「時代ごとに確かに、人の目には不思議に思えることが起こる。小高に来た私の2か月も、まさに予期せぬ人たちと出会う日々の連続だった」と飯島さんは振り返った。幼稚園舎の古い荷物の片づけは重労働だったが、大切な助け手となる若者と出会い、作業が進んだ。新しい教会看板作成も、デザイン業を兼務する近隣の牧師に依頼できた。「当初は『荒地』に来る思いでいたが、すでにキリストがこの地で働かれていることを知った。自分はただそこに招かれたに過ぎないのだと知らされました」
祈る飯島さん
飯島さんは東日本震災後、同教団の救援対策本部担当幹事として、被災した各教会の再建に携わった。当初は南相馬市の鹿島栄光教会が心にかかっており、一昨年に東北教区議長に奉仕の可能性を聞くと、「むしろ浪江・小高伝道所をお願いしたい」と声がかかった。「両伝道所のために東北教区の牧師たちが汗を流していたことは知っていた。自分よりも教区の牧師が立てられるべきではないかと思っていたが祈りました」。家族や周囲から心配の声もあったが、単身小高にやってきた。
浪江伝道所。かつては「薔薇(バラ)教会」と称していたことも。震災後手つかずで草やツタにおおわれていた
現在は小高と浪江で月2回ずつ交互に礼拝を開いている。浪江町は17年に一部が避難解除された。浪江駅から約10分にある浪江伝道所は、そもそも震災の4年前から様々な課題をかかえ、通常礼拝を休止していた。会堂内のカレンダーや予定表は07年のままだった。会堂・牧師館は半壊判定をうけている。
浪江・小高伝道所の活動再開と支援を、今後国内外に呼びかける。小高・浪江伝道所宣教支援会代表の荒井偉作さん(名取教会牧師)は「原発事故は、様々な観点から見て、人間の罪の結果起きたと言える。教団全体でも原発反対の声明を出してきた。原発から近い場所での礼拝再開となるが、『安心して戻ってきてください』と声高に言うためのものではない。小高で震災前比の人口の3割、浪江町も1割の人が居住するようになった。その方々のために教会が存在する責任があるのではないかという思いをお伝えしたい」と話した。
飯島さんは地区の協力の姿を見て、浪江・小高は教会の共働のシンボルではないか」と思わされている。さらにバプテスト教会や同盟基督教団、超教派団体など、教派を超えた教会のつながりもできた。「今後日本全体で少子高齢化が進む中、どう地方の教会を持続していくか。自分の教会プラス1教会を支えるという発想を持てないだろうか」と宣教の在り方も模索している。【高橋良知】
(クリスチャン新聞web版掲載記事)