【神学/戦争と正義】パレスチナ戦争に見る正戦論の弱点
イスラエルとハマスの戦争で西側諸国はイスラエルの自衛権を支持した。だがイスラエル側の死者千400人に対し、イスラエルの反撃によるガザ地区の死者は1万3千人に及び(11月中旬現在)、しかも犠牲者の多くは多くの子どもを含む一般市民であることから、世界各地で非難が高まっている。戦争の大義とされる「正戦論」の弱点について本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイが11月8日に掲載した論考「This War Shows the Weakness in Just War Theory」を、翻訳して掲載する。
パレスチナ戦争に見る正戦論の弱点
イスラエルとハマスの紛争に対する多くのクリスチャンの反応は、正戦論(just war theory)に傾いている。それは善意ではあるが、深い欠陥がある。
正戦論は由緒あるキリスト教の伝統だ。国際法やアメリカの戦争法の哲学的基礎であり、その意図は紛れもなく崇高なものだ。しかしその理論には深い欠陥もあり、多くの西側キリスト教徒が正戦論の枠組みの中で対応してきたイスラエルとハマスの恐ろしい戦争は、その限界をあらためて証明している。
正戦論の基本的な要素は”jus ad bellum”(戦争する正当性)と”jus in bello”(戦争における公正性)の二つである。それはこのラテン語が意味するように、戦争に突入する正当な理由があるか、そしてひとたび戦争が始まれば、公正に戦っているか、を判断することである。
この大きな問いに答えるために正戦論者は多くの小さな問いを投げかける。”jus ad bellum”に関しては、戦争は最後の手段か、戦争は公然と宣言されたか、戦争は正当な権威によって宣言されたか、正当な理由があるか、正当な目的はあるか、その目的を達成する現実的な可能性はあるか。
次に”jus in bello”に関しては、軍事力の行使は均衡しているか、民間人の犠牲を避けるために十分な配慮がなされているか、捕虜は人道的に扱われているか、戦争犯罪は自国によって処罰されるか、可能な限りエスカレートしないように公正な平和を視野に入れた戦略が立てられているか。
正戦論は、疑う余地も無いほどに確固としたものなどでは決してない。それは、この時代において、またその重要性において、確固とした理論などありえないのと同様だ。しかし、正戦論の基礎は、何世紀にもわたって、十分に積み上げられてきた。古典的な定式化は、中世の神学者トマス・アクィナスが、初期キリスト教の思想家アウグスティヌスの著作を基礎として『神学大全』(Summa Theologica)に記したものである。正戦論のほとんどは、ほぼこの線に沿って繰り返されてきたことがわかる。
国際法や条約、米国戦争法に理論の影響
正戦論はジュネーブ条約の知的祖先であり、戦争に関する国際法の中心的な問題である”jus in bello”を主に扱う条約である。この理論の影響は、合衆国憲法が宣戦布告の正当な権限を大統領ではなく議会に与えている点にも表れている。その理論的根拠は、ジェームズ・マディソンが憲法制定会議でのメモに記したように、「戦争を促進するのではなく、平和を促進する」ことである。言い換えれば、戦争の開始により多くの監視の目を向けることで、戦争が公正なものになる可能性が高まるということだ。
1973年に制定された戦争法を筆頭に、後に制定された米国の戦争法の多くも同様に、正戦論の要求に基づくものだ。C・S・ルイスやラインホルド・ニーバーのような著名な現代のキリスト教思想家も、この伝統の中で重要な働きをした。
このような系譜と正義を追求する多くの問いかけがある中で、私がなぜ正戦論には深い欠陥があると考えるのか、理解してもらうのは難しいかもしれない。なぜなら、ある意味では、この理論には評価すべき点がたくさんあるからだ。
実際、ほとんどの代替案と比べれば(歴史はその例にあふれているが、先月のハマスの猥雑な攻撃は十分な対照となるはずだ)、現代の秩序における正戦論の支配は、キリスト教思想の驚くべき功績である。
平和主義者のカトリック作家トム・コーネルが『プラウ』誌で述べているように、戦争に制限がない「何でもありの世界」と正戦論の二者択一を迫られれば、常に正戦論に軍配が上がるだろう。そして、米国政府のように、政府が正戦論の原則を遵守すると約束した以上は、政府はその基準に従うべきである。
基準は操作可能
問題は、その基準が操作可能だということだ。正戦論に対する私の批判の核心は、偽善ではないし、正戦論信奉者の単なる言行不一致―この理論の厳格な基準が、それを守ることを誓った人々によってしばしば無視されること―でもない。
私が言いたいのは、その基準がそれほど厳格ではない、ということなのだ。正戦論は、戦争を制限するよりむしろ、私たちがすでに決めたことを何でも正当化しうるよう、あまりにも簡単に使われてしまうのである。それはいかようにも解釈できるので、反故にする必要などない。「良きサマリア人」のたとえを聞いたあとに律法学者たちがイエスに質問したのは、隣人をよりよく愛するためではなく、自分自身を正当化しようとしてだった(ルカ10:25〜37)。私たちもしばしば同じことをする。
「正戦論が生み出されて以来、西側諸国のあらゆる戦争で、あらゆる側が私利私欲の主張を正当化するためにその理論を使ってきた」とコーネルは言う。「結局のところ、どの政府も不当な戦争を行う意図を表明したことなどない。…いずれの戦勝国も、その勝利を自らの悪行のせいだとしたことはないし、戦勝国の指導者が戦争犯罪で国際法廷に起訴されたこともない。それは敗者にのみ適用される」
正戦論者の私生活についても、あまり評価できるものではない、とコーネルは続けた。「教会の指導者たちには、政治家や将軍たちに勝る実績などない。古今東西、彼らは事実上すべての戦争で政府に白紙委任状を書いてきたではないか」と彼は告発する。
例外はある。特に戦争開始前の”jus ad bellum”の段階では。しかし、歴史的評価が定まる前に、アメリカの正戦論信奉者たちがリアルタイムでこの戦争は不当であると判断したアメリカの戦争は、記憶に新しいところでは一つもない。そのような信奉者のカテゴリーには、米国の福音派のほとんどすべてが―少なくとも実際には、たとえ彼らが正戦論という言葉を知らないとしても―含まれる。歴史的平和教会(ブレザレン、メノナイト、クエーカー)を除いては。
それは政府が常に正しい判断をしているからなのか? それとも、正戦論の基準があまりに拡大解釈されすぎているからなのだろうか?
歴史的な記録は、正当な理由や正当な権限、民間人の犠牲を避けるための十分な配慮といった言葉は、数学的な公式ではなく、判断の基準であることを示唆している。そして私たちは、冷静な(あるいは全知全能の)観察者が同意するかどうかにかかわらず、自分たちの側に有利な判断を下し、自分たちや友人たちの選択が正当であると決めつける傾向がある。
フランスの神学者ジャック・エルルの言葉を借りるなら、「キリスト教徒は、暴力を支持することはできない。暴力を支持することで神学的非難を受けると感じ、また、正しいことをしていないと感じるならば。このように、暴力の容認は必然的に神学的見解を伴うが、それは暴力の決定が下された後で〝事後的〟に打ち出されるものである」。
このように、正戦論は、その目的である戦争への積極的な抑制とは正反対に、遡及的な正当化となる。
まさに、2003年のイラク侵攻を正当化するため、ラムズフェルド元国防長官は、10年越しのあと知恵で、正戦論を使った。その侵攻で行われた予防的攻撃と体制変更プロジェクトは、拷問の使用を含み、罪のない何十万人もの死者を出し、イラクに古くからあるキリスト教徒社会をほとんど壊滅させたことで悪名高い。
自己弁護への誘惑
オバマ大統領(当時)が、自らの外交政策へのアプローチを説明するために正戦論を持ち出したのも、2001年と2002年に制定された法律を使って、その法律が書かれたときには存在しなかったイエメンとシリアに対する軍事介入を正当化するためだ。
絶望的な状況であればあるほど、この種の倫理的弾力性は誘惑になる。そして、イスラエルとガザの状況は極めて絶望的だ。
もちろん、ハマスとは異なり、イスラエルは罪のない人々への奇襲攻撃で現在の暴力を始めたわけではない。イスラエルはジュネーブ条約の一部加盟国であり、独自の戦争法を持っており、民間人の生命を完全に無視して戦うことはない。
しかし、イスラエルによるガザのハマスへの地上攻撃は急ピッチで進んだ。そしてそれは、ペトレイアス元米軍大将が『フィナンシャル・タイムズ』紙で語ったように「気の遠くなるような困難さ」を伴うだろう。実際、ISISとのモスルの戦い(2016〜17年)は、予想より3倍長い9か月を要し、数千人のイラク市民と兵士が殺害され、百万人が避難した。『エコノミスト』誌の説得力のある分析によれば、ガザでの戦争はさらに血なまぐさいものになるだろう。
『フォーリン・アフェアーズ』誌で戦略家デビッド・キルカレンが説明したように、避けられない現実は「イスラエル地上軍が大量の死傷者を出すことになる。屋内や地下トンネルでの戦闘を含む、恐ろしく困難な戦略的条件に直面する」ということだ。
彼はなおも続ける。「ガザではイスラエル国防軍の最初の重要な目的は、ハマスの戦闘員と市民を分離することだった。これは住民を守るためでもあり、正当な標的を特定するためでもあった。しかし敵軍は非戦闘員、すなわち市民の中に潜り込んでおり、市民はどちらの立場であろうと人間の盾となる。これは市街地戦闘の最も困難な側面のひとつである。イスラエル国防省報道官のハガリ少将は10月中旬、ガザをハマスの拠点として利用できなくするため、イスラエルの『焦点は精密さから損傷と破壊に移った』と述べた。これはイスラエル国防軍が以前より民間人の標的を避けることを重視していないことを示唆している」
「罪のない人々に危害を加えないよう最善を尽くす」とレゲブ駐EUイスラエル大使は、ハマスの猛攻撃の直後に述べた。「我々は民主主義国家だ。民主的な国であり、国際法に縛られている」。しかし一方でイスラエル政府は「ハマスの抹殺と同胞の救出のためにあらゆる手段を行使する。後ろ手に縛られてテロリストと戦うことはできない」」とも。
要は、正戦論の原則を厳格に適用することである。開戦から1か月を経ずして「正戦論」の拡大解釈はすでに始まっている。
ボニー・クリスティアン(クリスチャントゥデイ思想・書籍担当編集ディレクター)
(2023年12月3日号 06面掲載記事)
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