イエスの降誕は 人と同じ苦しみ負うため

木原 活信 同志社大学社会学部教授

クリスマスが来るといつも思い出すことがある。15年以上前、当時6歳だった重度の知的障害と自閉症の甥(おい)、H君が通っているキリスト教主義に立つ知的障害児通所施設のクリスマス会に招待されて参加したときのことである。そこでは降誕劇があり、H君がヨセフ役をすることになった。いわゆる「普通の」会話ができない彼がどうやって大役をこなすのかイメージがつかなかった。自閉スペクトラム症(ASD)の特徴であるが、H君も一つの場所や状況でじっとしていられない、こだわり行動がきつい、通常の会話ができない、また重度の知的障害も伴っているのでそもそも劇で役割が出来るのか想像すらできなかった。

そんな不安の中、ヨセフに扮したH君が職員に寄り添われながら立派な衣装を着て登場してきた。マリア役の障害をもつ女の子と一緒に「宿屋を探す場面」であることは舞台背景と職員のナレーションでわかった。そこで彼は「うおー」と第一声を発した。そして、博士たちから贈り物を受ける場面でも、同様に「うおー」「うおー」「うおー」と応答した。劇の間中もじっと座っていることができた。その態度とその発話だけでも驚きであり、この施設での療育活動の確かな成果であったと確信した。彼の成長に対して単純に嬉(うれ)しさと驚きがあり、一緒に見学に来ていた彼の母親に声をかけようと振り向くと、カメラで撮影している彼女の目には大粒の涙がこみあげているのがわかったので声をかけるのが憚(はばか)られた。母親のこの涙がすべてを物語っていた。

母親は、息子のH君といつも一緒にいて、たとえ芥子種(からしだね)一粒ほどの小さな成長であってもそれを誰よりも喜び、慈しみ、期待する。逆に、芥子種一粒ほどの痛みや苦しみがあればそれを共に苦しむ。その思いこそは、コンパッション(共感共苦)の愛そのものであった。それは神の「眼差(まなざ)し」に近いのかもしれない。この降誕劇ほど演出も演技も下手なものをみたことがないほどであったが、そこにはこれまで見たどの降誕劇よりも、クリスマスの本当の意味を伝えているようで不思議な「神聖な」感覚に囚(とら)われた。

劇に合わせて朗読されていたルカの福音書1、2章に出てくる「暗黒と死の陰に住んでいた者たち」「野宿で野番」「宿屋には彼らのいる場所がなかった」「飼葉桶に寝て」……という舞台(場所)は、人間社会から外され、周縁に生きざるを得なかった者たちの当時の人たちの必死な「苦悩」の叫びの場であった。この「暗闇」「死の影」「野宿」「いる場所のない」世界にイエスは、共に苦しむ者を代表して飼葉桶に誕生したのである。王室どころか、宿屋でもなく、家畜のふん尿の匂いが漂う飼葉桶、これが虚飾のない実際のイエスの降誕であった。

栄光ある王として、成人としていきなり登場したのではなく、親に支えられなければならない赤子として産まれた事実を忘れてはならない。敢(あ)えて、そのような姿を取られたのはなぜか。もしも栄光ある姿を強調しようとすれば、成人として輝ける救い主として登場したほうが良さそうなものである。しかしそうではなく、イエスは、赤子として、家畜小屋の飼葉桶に生まれる貧しき、小さき、弱き姿を敢えて取られたのである。それは地上にいる人間の苦悩にコンパッション(共感共苦)をするためであったのであろう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(ヘブル4・15)と記されている通りである。つまり、神が赤子の姿として誕生した神秘には、神の人間へのコンパッションという目的があった。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4・16)

2023年12月24・31日号   03面掲載記事)