2003年の第5回アジア太平洋ホスピス大会で。日野原氏(右)と筆者

 

聖路加国際病院名誉院長、そのほか多くの肩書きを持ち、文化勲章受賞者でもある日野原重明先生は、2017年、105歳で逝去された。先生の多方面にわたるご活躍は多くの報道により、周知のことと思う。私はホスピスと死の臨床の分野で、先生には実に多くのことを教えていただいた。この稿では、先生との個人的な交流から教えられた先生のお人柄、信条、生き方について書いてみたい。

先生は「挑戦の人」であったと私は思う。ある学会の後で、先生と二人で食事をする機会があった。先生は80代の半ばになっておられたと思う。先生が力を入れている「老人の会」について、熱心に話された。その後、急に話題が変わり、「足が弱らないように、駅ではエレベーターに乗らずに、階段を上がっています。2段ずつ」と言われた。先生のお年で駅の階段を2段ずつ上がるというのはかなり大変だろうと思った。そこで私は「2段ずつというのは、かなり大変だと思いますが、なぜ2段なのですか?」とお尋ねした。先生のお答えは「挑戦です」だった。数年後、別の学会で先生にお会いし、食事を共にさせていただいた。食後の歓談の折に「先生、階段2段上りは、まだ続けておられますか?」と、おそるおそるお尋ねした。お答えは、「もう、2段上りは無理になりました。しかし、エレベーターには乗らず、階段を1段ずつ登って上がっています。でも、最後だけは2段にします」と言われた。すかさず私は「どうして最後は2段なのですか」とお尋ねした。お答えは「挑戦です」だった。

ある年、私が当時勤めていた病院が主催する、年に一度の院外講師に来ていただいて行う「特別講演会」に日野原先生をお招きしたことがあった。JR大阪駅近くの「中之島公会堂」がこの「特別講演会」の会場であった。運営の責任を私が取ることになった。日野原先生とご相談の結果、午後1時開始、主題は「全人医療」、先生の持ち時間は1時間半となった。先生は当日夕方から、もう一つ会に出席されるとのことであった。「JR大阪駅までお迎えに参ります」との申し出に、先生は「会場にはタクシーで参りますから、出迎えは結構です」と言われた。到着時、どなたか「付き添いの人」とご一緒であろうと思っていたが、先生おひとりであった。大きなボストンバックを持って降りて来られたので、当然のこととして、「お荷物お持ちします」と言って、お荷物を受け取った。その荷物の重さに、「びっくり仰天」した。先生はこのときおそらく90歳近くであられたと思われる。

日野原先生は多くの会を創設されたが、中でも有名なのが、時代を先読みした「新老人の会」である、、、、、、、

2024年06月02・09日号 03面掲載記事)