「自然という書物」展で考える聖書、エコ
ハルトマン・シェーデル著、ミヒャエル・ウォルゲムート、ヴィルヘルム・プライデンブルフ画『年代記』(1493年刊 明星大学蔵)と展示室の様子
新緑が芽吹き、次々と花が咲き、昆虫や動物たちが姿を見せる。春は自然の息吹を感じる季節だ。植物学者を題材にしたドラマも連日放送される中、西洋、キリスト教と自然の関係を知ることができる展示が開催されている。
「自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート」展(5月21日まで東京・町田市立国際版画美術館)は、キリスト教自然観の歴史も豊富に紹介し、人、信仰、自然の関係を考える機会になる。
「自然という書物」とは、「第一の書物」である聖書に対する、「第二の書物」としての自然のこと。
展示される書籍、版画からは、造形の面白さや自然観察の精密さに驚かされる。同時に、自然を見るその「目線」にも気づかせてくれる。この「目線」は思想だけではなく美学にもかかわるものだが、喫緊のエコロジー問題にもかかわる。それに関して、記事後半でいくつかの論点を紹介する。
「自然という書物」展に見るキリスト教自然観
『キリストの生涯注解』より一葉(1482年頃刊、町田市国際版画美術館蔵)
最初の部屋では、中央の巨大な古書を囲み、壁際に中世・ルネサンスの版画が並ぶ。最初の一枚は『キリストの生涯注解』(1482年頃刊)の冒頭、天地創造の場面だ。創造の神が祝福の手ぶりをしている。
中央の古書は『年代記』(1493年刊)。こちらも天地創造の場面に創造主の手が描かれる。いずれも聖書の創造、自然描写を再現する。
同展は4章構成だ。第1章15、16世紀では、中世からルネッサンスに移る聖書記述や寓意の自然描写とともに、薬効ある植物などの詳しい自然観察記録もある。
動物については、想像力で描かれているものがあった。『怪異と不思議の年代記』(コンラート・リュコステネス)には、奇妙な生物などとともに、新大陸の原住民が描かれ、西洋から見た異文化圏の人々への目線がうかがえた。
またこの章では、自然物を借りた「寓意」にも注目する。この章ではほかにアルブレヒト・デューラーの『大受難伝』ほか、『被造物の道徳的対話』ヘラルト・レーウ)、ヒエロニムス・ボス《懺悔の火曜日》、『四人の福音書記者』(ゼバルト・ベーハム)など、聖書的、キリスト教的題材が多い。
アタナシウス・キルヒャー『シナ図説』(1667年刊、町田市立国際版画美術館蔵)。蓮の池の中央にいるミイラ男のような像は、ブッダの涅槃像といわれる
第2章17、18世紀では、望遠鏡や顕微鏡の発達と大航海時代で世界の解像度の高まりと広がりが増す。ここではまず世界初の子ども絵本と言われる『世界図絵』(ヨハン・アモス・コメニウス)が興味深い。平凡社ライブラリーで翻訳もされているが、アルファベットを動物の鳴き声であらわし、神、世界、天空、大地…ユダヤ教、キリスト教、マホメット教…神の摂理、最後の審判、などと様々な事物や概念が図で表現され、現代の子どもにも読みやすい。そこには自然物を客観的に描写するこだわりがあった。
好奇の的となっているのは、イエズス会の博物館長だったアタナシウス・キルヒャーの諸著作だ。世界中の宣教師から情報が集まる立場にあり、森羅万象を紹介する。中国について想像も交えてまとめた『シナ図説』は中国の実態とはへだたりがあった。博識だが、「画期的発見もない」「『神意』がいかにはたらくかを見ぬくことだけが科学の目的」などと指摘されている。一方でカトリックへの信仰はゆるぎなかった(『キリヒャーの世界図鑑』工作舎参照)。
『神と自然―歴史における科学とキリスト教』(デイビッド・C. リンドバーグ編、渡辺正雄訳 みすず書房、1994)では、当時のイエズス会による科学的探究心を認める一方、あくまで布教優先で、折衷主義的だったと評価する。
確かに今から見れば、面白おかしい内容が多い。しかし現代においても、都市伝説、陰謀論的なものと信仰が結びつき、現実的な暴力すら生み出す状況を思えば、昔の人を笑うことはできない。
またこの章にはデカルトの『方法序説』もある。
ジョージ・スタップス『馬体解剖』、1766年刊、放送大学付属図書館蔵
第三章18、19世紀では、自然の分類・解剖が精密化する。探検と植民地化が進み、原住民へのまなざし、終盤にシーボルトの図で日本へのまなざしも意識される。ダーウィンの『種の起原』もある。
ここまでくると、直接キリスト教的な題材は少ないが、最後第四章では、デザイン、美術的な観点で全体を見返す中で、キリスト教的テーマに再び出会う。
エドワード・バーン=ジョーンズ『フラワーブック』(1905年刊、郡山市美術館蔵)。「ヤコブの梯子」など8点が展示されている
図版を縁取る自然物の装飾の例として、『時祷書』や『鳥と花の縁取りのあるキリストの洗礼』、アルフォンス・ミュシャの『主の祈り』がある。ファンタジー、絵本の例の中でエドワード・バーン・ジョーンズの『フラワーブック』があり、「ヤコブの梯子」や「ベツレヘムの星」などの場面の絵画を見ることが出来る。また美術批評家のジョン・ラスキンの『近代画家論』などでは、自然物と装飾の関係を対比的に紹介し、あるがままの自然の見方を示した。
以上展示内容から一部を紹介した。
自然と美の経験が倫理的実践に―自然神学をめぐり
今回、自然観をテーマにした美術展を通して、自然の美に焦点が当たる。自然との関係の中で美学が倫理的実践、環境保護実践にもかかわってくる。
以下、展示からいったん離れ、キリスト教と自然の関係についての書籍などを記者の視点で引用しながら、美学的、倫理的実践の可能性に触れる論点を紹介する。
キルヒャーに関して言及した『神と自然』は、古代から現代までのキリスト教と科学の関係をまとめている書籍だ。キリスト教と科学の関係は「『衝突』とか『調和』という単純な関係には還元できない複雑で多様なもの」であると明らかにした。
同書は、聖書と自然という「二つの書物」は科学者ベイコンによる「妥協策」と指摘している。「二つの書物」の関係は、自然科学の独立と聖書理解への貢献というかたちで200年以上保たれていたが、科学の進展とともに、その関係は崩れていく。
自然と聖書の分断の中、聖書そのものが提示する自然観を再吟味するのが『聖書とエコロジー 創られたものすべての共同体を再発見する』(リチャード・ボウカム著、山口希生訳、いのちのことば社、2022年)だ。
自然と人間の関係として、「管理」「支配」にかかわる「スチュワードシップ」という考え方がある。これは17世紀のベイコンに由来するものだが、その人間中心的なあり方に批判があった。
ボウカム氏は、聖書記述を検証し、人間とそれ以外の自然を含む相互依存的な「被造物の共同体」という視点を提示する。
聖書の言う「支配」とは、「他の生物に責任あるケアを提供する役割」のことであり、「人間の生存や繁栄のために地球の資源を利用する権利には限度」があり、「神ご自身の被造物への配慮を反映するのであって、奪い取るものではない」。
聖書は全被造物による創造主へ賛美、地球とその被造物の荒廃のための嘆きを描くが、終末的な希望がある。その希望は、「今ここで、こうした関係性の修復をできるだけ実現させよう」という動機付けになる。
神学と科学が切り離された状況下で、生物学者で神学者のA.E.マクグラス氏は、『「自然」を神学する―キリスト教自然神学の新展開』(芦名定道・杉岡良彦・濱崎雅孝訳、教文館、2011)において、自然神学を「回復し、再定式化」する試みを提示する。
伝統的な自然神学は知的分析に限定されていたが、「理性的、想像的、そして道徳的側面―を包括する」視点を提案する。それは真理、美、善に代表される視点だ。「美しいものを注視するとき、われわれは世界を気遣うことができるようになる。また、世界を気遣うとき、われわれは不正義に気づく」と勧める。
今回の展示でも紹介されたラスキンについて、マクグラス氏も同書で繰り返し言及し、「現にあるがままの自然にふさわしく自然を『見ること』の真の重要性を正しく理解しており、想像的、科学的、そして神学的な関心を彼の著作において一つにまとめた」ことを評価する。
ラスキンは、19世紀において、経済学批判と美学的観点から倫理的実践に取り組んだ自然環境保護活動の先駆者だ。『経済学の哲学 - 19世紀経済思想とラスキン』(伊藤邦武著、中央公論新社、2011年)は、ラスキンのエコロジー思想に注目する。たとえばラスキンの「風景の倫理」は、「真理の探究」と「美の感動」が合わさり、「神聖さ」を享受するものだ。
伊藤氏は、自然と精神を重視するラスキンの思想は、功利主義や反人間主義といった、現代のエコロジー思想の「人間中心主義の傲慢と過激な生命平等主義」を乗り越えると期待する。
マクグラス氏によると、「ラスキンの姿勢は、芸術あるいは自然に介入する度合いの低い科学・・・における自然の正確な描写が超越的なものへの接近を可能にする真の審美眼をもたらす」という。これは上述の「神聖さ」であり、マクグラス氏が同書前半で指摘する、「畏怖」をもたらす超越、あるいは「崇高」という美学概念にかかわる。
『環境倫理学入門 : 風景論からのアプローチ』(菅原潤著、昭和堂、2007)はラスキン同様に、「風景」から環境倫理を考える。風景には、自然だけではなく、社会的、文化的、歴史的な側面があり、風景の継承は、人々の記憶の世代間継承につながる。
自然にかかわる部分では、哲学者のマルティン・ゼール氏やアンゲリーカ・クレープス氏を参照し、「自然は時には恐ろしくも崇高な自然としての姿を現わすことで、私たちが常日頃おこなってきた理論的・実践的関係を刷新する」という。この「恐ろしくも崇高な自然」に直面することが「精神的資源」となり、人間中心主義や自然中心主義を乗り越える視点を提供する。これもまたラスキンと重なる。
確かにラスキンは、崇高に直面した時、その先にある信仰へ向かわず断念する方向に向かった。マクグラス氏は、ラスキンがそれ以前に残した信仰的著作の可能性を評価しているのだろう。もう一つのラスキンの可能性を、C.S.ルイスに語らせている。
「美が置かれているとわれわれが考える書物や音楽は、もしわれわれがそれらを信頼するならば、われわれを裏切るであろう。美はそれらの内に存在したのではなく、それらを通して到来したにすぎないのである・・・」
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今回の「自然という書物」展によって、自然の美に注目し、身近な自然を見つめ直すことができるだろう。そしてその存在が脅かされる現在、終末の希望を持ちつつ、どう自然と関わるかも考えていければと思う。
〇「自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート」展
【場所】町田市立国際版画美術館(東京都町田市原町田4-28-1)
【期間】前期後期で展示一部入れ替え。前期は4月16日(日)まで。後期は4月18日(火)~5月21日(日)。月曜日休館。
【開館時間】平日午前10時~午後5時、土日祝午前10時~午後5時30分。
【入場料】 一般900円、大学生と高校生450円、中学生以下無料。
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