2015年、特別支援学校高等部の卒業式、国歌斉唱時の不起立で3回目の懲戒処分を受けました。その処分撤回の裁判の判決が5月17日に出ました。敗訴でした。

判決理由書に過去の2つの「不起立」処分が書かれ、私を全体の奉仕者たるにふさわしくない「非行」教員との印象を作っています。過去の2回も「非行」ではなく、信仰上の理由で自分は立てないこと、歴史的経緯を考えると「君が代」を起立斉唱させられることに抵抗を感じる人が多くいること、教育の本質を考えた結果でした。2015年の「不起立」も本質は変わらないのですが、「君が代」の意味(歴史的、宗教的)に関係のないものでした。

そもそも障がいのある生徒の支援のために1対1で付き添っている担任が、行事で周りが立つ時、立てない生徒の横で立たないのは当然です。

加えて、日常では経験することのない儀式、言葉が理解しにくいので顔の表情やからだ全体の雰囲気や声のトーンが助けのコミュニケーションを必要とする二人です。

周りがほとんど立つ「国歌斉唱」で、隣の担任までが起立したらどうでしょう?顔の表情も見えず、取り残された不安は発作につながります(毎日小さな発作はありました)。

前年2年生として参加した卒業式では起立斉唱の時小さな発作を起こしました(その時は担任である私は式場に入ることは許可されず教頭が代わりに付き添っていました)。

2015年3月、この生徒は元気に卒業式を終えることができました。しかし座って支援した私は、「職務命令」違反で戒告処分を受けたのです(あと1回で免職という警告書付き)。

判決理由書では、私が過去に2回不起立で懲戒処分を受けていることが繰り返し書かれ、「合理的配慮による着席」が、「てんかん発作の予防に仮託して・・・起立斉唱することを回避しようという疑いを払しょくすることはできない」と判決理由で述べられているのです。「発作の予防に仮託して起立斉唱を回避した」と裁判長が認定した形となりました。とても残念です。

私の不起立は「信仰」によりますが、教員という仕事を続けて来て思うのは生徒のとなり人になることの大切さです。そして、となり人としての着席になりました。私は、裁判官や教育委員会に理解されない辛(つら)さを経験することによって、障がいを持って社会生活を送る人の辛さが少しは分かってきたかもしれません。道に傷つき倒れていた旅人の痛みをユダヤ社会で排除されてきたサマリア人が共感し、となり人となったように。

思想・良心の自由、信教の自由、教育の自由に反し、合理的配慮もさせないこの条例とそれによる処分を伴う職務命令の違法性と11年以上闘い続けてこれたのは、多くの人の祈りと、神様の支えがあるからです。

今回の判決が判例となれば、学校現場では教員が生徒のために支援の方法を考える時、まず職務命令違反にならないかを考えて、萎縮するという恐れがあります。

すぐに控訴しました。

寄稿・奥野泰孝=大阪府、君が代「不起立」被処分者

 

イエス様は私に 「ひとりにしない」と 『となり人』を考える会で奥野泰孝さん 

【2・11 信教の自由を守る日】続く「君が代」強制との闘いと展望 奥野泰孝(芦屋福音教会会員 大阪府立支援学校教員) 

「聖書に忠実で堅実な宣教を」 2・11信仰の自由の祈りのつどい 

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