東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に2011年3月21~26日に参加した。連載最終回はその後の仙台教会の支援と宣教を振り返る。【高橋良知】

前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

③忍耐の一週間と支援の開始

④仙台から陸前高田へ

⑤陸前高田唯一の教会

⑥津波は教会堂手前まで

⑦震災前からの困窮/会堂流出の現場

⑧再建と地域の魂への思い

⑨仙台から気仙沼へ

⑩悲しみだけではない日常がある

11被災地にあり続け、感じる「ズレ」

12高齢化進行、だからこそ良い関係

13仙台から東松島へ

14津波で孤立/復活信仰へ

宣教には神様の時間軸がある

写真=石巻福音自由教会会堂

写真=高橋牧師夫妻

石巻福音自由教会の会堂は牡鹿半島入口の三和町に14年10月献堂した。

「礼拝室の講壇上部には、ステンドグラス風の窓がある。デザインは仙台福音自由教会の仲田志保伝道師。港町の大漁旗をイメージした漁船や海を泳ぐ魚の姿を盛り込みながら、今年の仙台福音自由教会のテーマ聖句、ルカ5章の深みにこぎ出ることを表現した。『港町石巻で、神の栄光が表され、宣教がなされるように』との思いだ」(本紙14年10月26日号)。

栗原延元牧師は仙台教会の協力牧師の立場で仙台から通い、教会・礼拝活動を支えたが、石巻に専従する奉仕者が求められた。そのような中16年に着任したのが、高橋勝義・明美牧師夫妻だ。

高橋夫妻は震災当時仙台市中心部北側の台原にある銀行の寮で管理人の仕事をしていた。明美さんは4月半ばから仙台教会の支援活動で石巻に通うようになった。勝義さんが震災後石巻を訪ねたのは14年春。建設中の石巻福音自由教会の会堂を訪ね、吉田牧師の話を聞き、被災地の風景を見る中で「石巻に来ることになるのかな」とふと思った。

6月にイザヤ40章1、2節を読み、「労苦は終わった」というみことばから寮管理人の仕事終了を導かれた。「一度は神学校を出て、東北宣教を示された中、寮の働きをしながら仙台、古川の開拓を手伝っていた。この時ちょうど20年目だった。この期間は『台原神学校。訓練の時』という思いがあり、この節目の年に『卒業』を神様から導かれました」

そのころ石巻福音自由教会のための働き人を教会で祈っていたが、当初は「まさか自分が行くとは思っていないので、働き人が与えられるように」と祈っていた。

やがて教会から招聘の声がかかり、勝義さんはデボーションで箴言1章23節の聖句を読み、「もう一度、直接献身という原点に立ち返るのだと促された。そして『神様、分かりました』と立ち上がることができました」。明美さんも「誰が行くべきか」に対する答えとして、士師記1章1~2節の言葉を受け取り、石巻の働きに進んだ。

「現在は複数の教会があるが、渡波は震災前には教会が無かった。宣教されていない場所と思われがちだが、実はそうではない」と言う。50年前に女性の宣教師2人(バージニア・ボーエン、ロレーン・フライシュマン)が子ども集会などを開いていた。そこで信仰をもった女性の父は地元の寺の総代を務めていたがその後、両親は女性のところに引っ越し、イエスを信じた。昨年1月に母親が召天し、故郷を訪問した女性は十字架に気づき、石巻教会を訪ねた。

「渡波は祈りの積まれた地域だった。人間の目にはすぐに結果が出ないように見えても、神様のスパンから見ると違います」

勝義さんは「東北、田舎の伝道は都市とは違う。礼拝に集う人も高齢。代々の墓を背負っている。神様にどこまでも信頼できるか日々戦いがある。日本中でいろんな災害が起こる中『神様はどこにいるのか』と問われるが、神様は本当に生きておられ、私たちを愛しているということを伝えていきたい」。

明美さんは「人生は無駄なことは何一つなかったと石巻に来て思える。『どうしよう』ということが次々と起こるが、神様がいれば大丈夫。コロナ禍で日常がひっくり返った。でも変わらないのは神様だけ。このお方を信じる安心、平安を伝えていきたい」と話した。

クリスチャン新聞web版掲載記事)

連載各部のリンク

第一部 3組4人にインタビュー(全8回   1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った  (全4回   3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間   (全16回 4月25日号から8月22日号)