立ち止まり考え、問いを生む シンポから 50周年記念⑯
立ち止まり考え、問いを生む クリスチャンメディアに今求められるもの/ 50周年記念シンポ
2017年創刊50周年記念関連記事を再掲します。
バックナンバーはこちら→① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮
(前回つづき)
髙橋 随分と意見をお寄せいただきました。順番にご紹介します。
①部数減のときに取る方策は編集長を変えること。
髙橋 編集長を変えるのは有効な手段でしょうか。
郡山 編集長を変えたっていうことを、どう読者に伝えるかです。有名な人でなければ読者は何とも思いません。それが気になるのは追っかけの人だけです。
②今のキリスト教界に2つも新聞は要らない。キリスト新聞と合併して一つになるべき。
③キリスト新聞と一緒になる、編集長を松谷さんにする。
松谷 記者は数少ないんで、取材したいところすべてに記者を派遣できない。交通費がかかる、など制約がある中で取材先で記者が重なるともったいない、と前から思っていたので、合併大賛成。編集長は髙橋さんでいいんですが(笑)。日本の教会には4種類ありまして、2紙取っている教会とキリスト新聞だけの教会、クリスチャン新聞だけの教会、どちらも取っていない教会。2紙取っている教会は見識の高い教会です(笑)。
朝岡 かつては福音派で起こっていることはクリスチャン新聞で読み、主流派はキリスト新聞で読むということがあったと思いますが、今は内容が重なり合っています。違いはあるでしょうから、たとえば週ごとに、1週目はキリスト新聞が編集し、2週目はクリスチャン新聞が編集するなど。
松谷 朝日と産経くらい異なっていれば2紙を続ける意味はあると思いますが。ただ同じ取材の記事でも、「負けたな」みたいなときもあります。
髙橋 でも「勝ったな」というようなときも。
松谷 まあ、そっちの方が多いですけど(笑)
髙橋 リニューアルされ、キリスト新聞は今までの読者を捨てるのかなと思ったんですけれど、どうですか?
松谷 捨てられた感を抱いてしまった読者も少なからずいると思いますが、意外に「慣れたら違和感無いよ」という方もいらっしゃいます。想像したほど部数は減らなかったので、慣れの問題かなと納得してます。大きさを変えたのは一つには電子版を同時に始めた時に、大判のままでは、タブレットでも、スマホでは読みづらい。時代の流れで変えざるを得なかったとは思っています。
髙橋 見た目の新聞らしさを残したい気持ちがある。クリスチャン新聞もタブロイド判になったときに「新聞らしくなくなった」と言われました。1面を写真と見出しだけで、というのはなかなかできないですね。
④フリーペーパーにしてクリスチャン全員に配ってはどうだろうか。
朝岡 実際に新聞作成のコストをどう捻出するか。相応の分のコストを読者側もちゃんと負担をしていく、お金を出して読むということは必要かなと思うし、一方ではお金出して新聞を読む時代ではなくなっているというのも事実で、その辺をどう考えるかというのは作り手側と読み手側の意識がけっこう違うかなと思うのです。
髙橋 購読者の方がいらっしゃるというのがもちろんいちばん大きいのですが、同時に広告を出してくださるスポンサーがいるということも本当に大きいんですね。今年創刊50周年特別号を3回出しました。その中で名刺広告という広告をたくさんいただいています。広告を出すことで新聞を支えてくださる人たちがいらっしゃるのは本当にありがたいことと思っています。広告営業を一生懸命やっている人間もいるということは、大きいかなと思っております。
郡山 クリスチャン新聞でもキリスト新聞でも広告を出す人はお布施みたいな感じでね、効果は全然信じてない可能性がある。これに出したらこういう効果があるということを伝えないと、結局私たちの甘えに繋がってくると思います。これではメディアも将来性はない。敢えて言わせていただく。
⑤紙の新聞の使命はもう終わった。人的資源を他に振り向ける。
⑥今はネットで情報を得る時代。若い人は紙の新聞など見たことはないのでは。紙は止めてネットの新聞に注力したほうがよい。
⑦教会が公同の教会として存在するということをもっと正しく理解し意識すべきです。いのちのことば社は採算を度外視してもクリスチャン新聞を発行し続けてください。
髙橋 一言、いのちのことば社社長に。
岩本 いのちのことば社社長の岩本です。霞を食べているわけではないので採算度外視っていうのは難しいのですけども、宣教の意味とそれからなるべく経営的な工夫をして発行し続けたいと思います。
◇ ◇
郡山 クリスチャン新聞もキリスト新聞もタブロイド判にしても、結構読めるんです。ただ画面が小さければ小さいほど読む量が少なくなってくる。そうするとニュースへの接し方が刹那的になる。今問題になっているのはフェイクニュース。クリスチャン新聞でもキリスト新聞でも編集者がちゃんと仕分けしていかないといけない。
朝岡 ネットで読む新聞の場合、見出しの訴求力、ある意味では、記事そのものが見出し化して刺激的な扇情的な言葉で人々を惹きつけることがあります。情報がこれだけ圧倒的なスピードで流れていく中で、それを追いかけるだけではやっぱりいけないんじゃないか。やはり新聞の中で読者が立ち止まって考えて、反論したり、そこから新しい問いが生まれることが大事かなと思います。
紙媒体で見て新鮮なのは紙面の割り付けです。ネットだと同じ価値の情報として流れていくんだけれども、新聞では1面、2面、その中での記事の扱い、見出しの大きさ、フォントなど紙面構成に編集者の意図が表れます。情報が情報としてなるべく生のまま提供されることも大事ですが、新聞という一つの媒体になるときの編集者の存在は大きい。今日も髙橋さんと松谷さんのやり取りを聞いてるだけでも面白い。編集者の顔が分かると新聞を読んでまたすごく面白い。
髙橋 郡山さんが先ほどおっしゃったのは作り手は顔を見せないほうがいいということでしたが。
郡山 それは編集者とは違って、私が通信をやってるからです。たとえばみなさんはご存じないかもしれないが地方にいらっしゃる方が地方紙を読んだら、国内外のニュースで地元のもの以外は共同通信から流れてきます。
共同デスクという発想がありました。たとえばクリスチャン新聞の記者が取材にいくならば、最初の2節くらいはオープンにしてキリスト新聞が使ってもいいと、記事交換協定というようなことがあったんです。
教会員なり役員なり仲間に一緒に見せて読書会を勧めたい。5部なり10部なりをまとめて買うときには少し安くするとかね。ただ牧師は忙しく、教会に届いたものが机の上に載ったままということがある。信徒や役員が新聞を掲示板に貼り出すとかしてクリスチャン新聞を支えるということが必要だと思うし、その結果としてクリスチャン新聞が教会に仕える新聞になっていくんではないかな。
⑧海外の情報をもっと伝えて。日本の教会はガラパゴス化しているのでは。
髙橋 CJCの働きはまだまだ続けていただけると思いますのでよろしくお願いします。
郡山 歳が歳ですから、いつまで続くかわかりません。今、私の目から見て一番発信力のあるのはカトリックのローマ法皇です。希望と平和の巡礼者として福音派の人も主流派の人もローマ法皇の行動に注目してもらいたい。英語で出てきたものを読みこなすというのが結構大変なんです。私にあまり期待するより一緒に作っていく方でご協力いただけたらと思います。
⑨信者に知られたくないことも載せてほしい
⑩牧師のスキャンダルなども隠さずに積極的に報道すべきなのではないか
郡山 これは難しいところですね。まずやっぱり神様のために遣わされている人の仕事というのは簡単に批判はできません。カトリック教会に大きな問題があり、福音派ではメガチャーチの問題とかがあります。それなりにCJCでも載せますけれど、なるべくみなさんに申し訳ないような扱いにはしないようにしている。ただし、最低限これだけは知っていただきたいというような形でやる。これだけは編集者の務めだと思っている。だからないわけじゃありません。日本の教会にもありますよ。
髙橋 ありがとうございます。本当に多くのご意見を頂き感謝しています。私たちも自分自身の新聞をもう一度考えるときとなったことを感謝しています。今日登壇頂いた4人のみなさんに感謝いたします。
50周年記念関連記事リストはこちら→ クリスチャン新聞50周年記念号記事を再掲載
クリスチャン新聞は、1967年5月にそれまで月刊で発行されていた『福音ジャーナル』を母体に創刊し、日曜礼拝を中心とするクリスチャンの生活サイクルに合わせ、同年11月からは週刊で発行してきました。
50周年を迎えた2017年には、4回の特集、2回の記念集会を実施しました。改めてこの50余年の報道の歴史を通して、戦後の諸教会の宣教の一端をご覧いただければ幸いです。
※毎週火曜、土曜に本オンラインで掲載します